現代の桶狭間

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桶狭間の戦い

日本歴史上もっとも有名な戦いの1つ。

駿河の今川義元(40歳)の大軍と、
尾張の織田信長(25歳)が戦った。

信長はもともと、
1群を納める家臣の長男に過ぎなかった。
17歳で跡を継ぐと8年で尾張8群を統一。
その翌年に桶狭間の戦いを迎える。

織田と今川

今川義元(兵数20000)
駿河3国を統治する、
100万石の大々名であった。
東側の北条と北側の武田と同盟を組み、
西の織田に進軍する。

織田信長(兵数4000)
尾張を統一したばかりであり、
周囲に同盟国はなく孤立していた。

圧倒的有利な今川に
織田の武将が次々に寝返る。
戦う前から勝利が見えている状態であった。

織田家

絶望的な状況で軍議が開かれる。

 家臣「籠城しかない……」
信長、イビキをかいて寝る。
 家臣「もはやこれまで……」

今川義元の進軍

5/12
今川義元が大軍を率いて駿河を出発。
1週間かけて尾張に到着。

5/19
早朝 徳川家康(今川軍)出陣
午前 今川軍が砦を次々に攻略し優勢。
正午 信長が豪雨の中、出陣

今川軍は雨を避けるため、
桶狭間山の周りにバラバラに休息。

14時 奇襲をかける
16時 織田軍が圧勝し清州城へ引き返す
 わずか2時間で歴史が変わった。

奇襲

今川軍本隊は5000人であった。
そこに、
織田軍の精鋭2000人が奇襲をかけた。
 信長「この場にいる者は末代までの高名ぞ!」
今川軍は混乱し、織田軍が優勢。

義元が打ち取られ、今川軍は戦意喪失。
織田軍の勝利に終わった。

今川の敗因

・兵は農民
・政治は有能だが戦では無能
・6日野宿後の合戦で疲弊
・桶狭間に単独で行軍

織田の勝因

・兵は専業の軍隊
・自ら先頭に立って指揮をとった
・籠城策をとらず野戦を挑んだ
・5ヶ所の砦(囮)で今川軍を分散させた
・地形を熟知した山谷でのゲリラ戦
・義元本隊が孤軍であるとの情報
・豪雨により今川軍に気づかれずに接近

情報戦

今川は数年前から織田家にスパイを潜入。
信長はあえてそのままにしておき、
部下に彼らの筆跡を習得させる。
その後スパイを処刑し、
ニセの情報を今川に送り続けていた。

信長自身は情報が漏れないように、
夜の軍議では世間話のみ。

桶狭間の戦いのMVPは
義元の休憩場所を知らせた者であり、
一番槍よりも大きな褒美を得た。

勝利は奇跡か?

陽動作戦や義元本隊の孤立情報など
信長は高度な情報戦を制していた。
その上で、籠城せずに勝負に出る決断。

当時は農民を大量動員して
数で圧倒するのが王道。
少数精鋭で挑むのは非常識であった。
情報重視も当時は型破りであった。
しかし、現代では常識である。

大うつけも油断させる演技であろう。
豪雨などの幸運も重なったが
まぐれの勝利ではない。

ただし桶狭間以降、
同じ戦法を一度も使っていないことから
ギャンブルであったのは間違いない。

徳川家康は?

このとき19歳であった。

織田攻めの拠点となる大高城。
信長に兵糧攻めを受けていた。
周りには織田の砦があり、
敵がウヨウヨいた。

そこに兵糧を運び込むという
大役を任される。
砦を攻め落とし、成功。

家康が攻め込んだ知らせを聞いて、
信長が桶狭間に出陣。

義元本隊を待つ

兵糧も揃い、万全の状態で大高城にて
本隊到着の知らせを待つ家康。
手柄を立てて褒美が気になるところ。

ところが来た知らせは
義元が打ち取られたとの内容であった。
大急ぎで逃げねば!

敗走

大樹寺に身を寄せるが、
郎党に取り囲まれて切腹を試みる。

が、住職に説得されて思いとどまる。

寺の僧たちと共に戦い、
郎党を追い払うことに成功する。

岡崎城へ

やがて今川軍の武将が捨てて逃げた
岡崎城に辿り着いく。
ここで城主となった。

駿府に戻らず今川から独立し、
織田と同盟を結ぶ。

豊臣秀吉は?

実は不明である。

1554年 秀吉が織田家に仕える
1560年 桶狭間の戦い
1565年 秀吉が文献に初めて登場

桶狭間の戦いに足軽として参戦していたとも、
奉行として内政官をしていたとも言われる。

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