当時のロシアは日本と比べて
人口3倍、財力10倍、兵力15倍の大国だった。
日本は国家予算の7倍をかけて大博打に出る。
原因は日本をナメ腐ったロシアの南下政策である。
勝因は……1つではなく、
多種多様な間接原因が重なったものだ。
日本軍30万とロシア軍50万が陸と海で激突し、
双方合わせて15万人以上の戦死者が出た。
朝鮮半島・満州をロシアと奪い合い、
日本が歴史的大勝利した戦争である。
年表
- 1891年 大津事件
警察官がロシア皇太子に斬りかかる - 1895年
4/17 清に勝利⇒下関条約
日本が清に不平等条約を結ばせた
4/23 三国干渉
ロシアがリャオトン半島を奪いにきた
5/10 リャオトン半島を返還
6/8 日露通商航海条約 - 1897年 朝鮮国⇒大韓帝国に国名変更
- 1898年 露がリャオトン半島・南満州鉄道をレンタル
ロシアがリャオトン半島・満州の利権を奪った - 1900年 義和団事件
鎮圧後もロシア軍が居座った - 1901年 日露協定を打ち切り
ロシアが朝鮮半島にまで手を出し始めた - 1902年 日英同盟
イギリスに利用価値があると判断された - 1904年 日露戦争
2/4 ロシアとの開戦を決定
腹を括って決戦を選んだ
2/6 ロシアに国交断絶を宣言
2/10 ロシアに宣戦布告 - 1905年
1月 旅順攻囲戦
大量の犠牲を出した消耗戦で辛勝
1/22 血の日曜日事件(ロシア)
単なるデモが1000人虐殺に(皇帝崇拝が崩壊)
3月 奉天会戦で勝利
双方で60万の大規模な激突
5月 日本海海戦で大勝利
ほぼ無傷でバルチック艦隊を壊滅
8月 ポーツマス条約
うわ……私の賠償低すぎ……?
9月 日比谷焼打ち事件
低すぎて日本国民がキレた - 1917年 ロシア革命
相次ぐ戦争と敗戦で皇帝一族皆殺し
三国干渉
ロシアはどうしても「凍らない港」が欲しい……
朝鮮半島の脇にウラジオストクを開港させ、
さぁ、今からリャオトン半島の不凍港を……という時に、
日本が日清戦争に勝利して占拠しちゃった。
そこで日清戦争後に中国に進出してきた
フランスとドイツを誘って、脅しに来た。
下関条約(1895)の6日後……

露仏独「東洋の平和を守るためだ」
(直訳:中国に進出じゃ~!)
断ったらロシアと戦争になってしまう。
日本がリャオトン半島から撤退

ロシアは西はポーランド、東は極東までの
世界最大の大帝国……
ヨーロッパと何度も戦った列強国であり、
日露戦争で消耗した日本に勝ち目などない。
ましてや欧米列強3国の要求など、
とても跳ね返せない。
日本は要求を呑まされた。
日本が退いたら……
- 1897年 ドイツが膠州湾をレンタル
- 1898年 ロシアが旅順・大連をレンタル
- 1899年 フランスが広州湾をレンタル
日本を追い返した後は、その見返りを
ロシア・ドイツ・フランスが清に求めた。
三国で清の領土を切り取り始めることで、
ロシアが北部、フランスが南部、
ドイツが東部に勢力を拡大していく。
反ロシア感情が強まる

ロシアは念願の不凍港を2つも掌握した。
いっぽう、
日本の利権だったはずの清北部をロシアが奪った。
これで日本が反ロシアで1つになる。
ロシアが満州へ
中国国内で列強敗訴運動が起こるも、
あっさり鎮圧される。
ロシアがそのまま満洲へ軍を居座らせ、
朝鮮にまで手を出し始めた……
義和団事件

清国内では度重なる植民地化に対し、
民衆が蜂起し、欧米列強に宣戦布告した。
8ヵ国連合軍がわずか2ヶ月で鎮圧し、
さらに清の植民地化が進んだ。

ここでロシアは清北東部の満州に軍を出したが、
事件解決後もそのまま居座った。
イギリスが味方に

アヘン戦争でもわかるように、
清は本来、イギリスの縄張りである。
そこにロシア・フランス・ドイツが進出してきた。
ロシアはさらに中央アジアを手中に収め、
インド方面に手を伸ばしていた。
もはや、
オスマントルコ・インド・清の3ヵ所を守るのは
世界最強のイギリスでも無理だった。
イギリスの目的はもちろん善意からではなく、
「意外と使えそう」な日本軍をロシアにぶつけ、
アジアの植民地を守るためである。
日本は政情不安定

いっぽう政党と協力する伊藤博文は4回、
政党を嫌う山縣有朋は2回など
総理大臣がコロコロ変わる。
日本としても、イギリスの支援はありがたい。
清からブン獲った賠償金を元に、
軍事工場や艦隊の増強に邁進した。
ここで朝鮮半島が日本から離れてしまう……
朝鮮がロシア寄りに

ロシアがリャオトン半島+満州に勢力拡大した。
そのうえ、
大韓帝国は反日感情からロシアに接近したので、
いよいよ朝鮮半島に進出してきた。
交渉に応じない

ロシアの陸軍は日本の10倍、
海軍は3倍もの規模がある。
日本がどんなに頑張って外交努力しても
強大な軍事力をバックにまったく譲歩しない。
そもそも強国ロシアが小国日本との戦争に
恐れる必要はなく、完全に日本をナメている。
もう、ロシアを放っておけなくなった。
ロシアをどげんかせんといかん。
2つの意見
ここで2つの意見が出た。
……が、ロシアは交渉にまったく応じず、
朝鮮を手放すか、激突するしかなくなった。
1.満韓交換

満州はロシア、朝鮮は日本で話をつけ、
戦争を回避しようという案である。
しかしそもそも、
ロシアは凍らない朝鮮の港が欲しかったから
アジアに進出している。
ロシアが満州に興味を持たず、頓挫した。
2.日英同盟

日本はこちらを選ぶことになった。
イギリスは日本以上にロシアを警戒している。
イギリスの植民地をロシアから守るため、
日本と利害が一致している。
日英同盟の内容

・日本 vs ロシアの戦いは中立
・第三国が参戦してきたらイギリスも参戦する
イギリスは援軍を出すわけではないが、
ロシア軍の最新情報やイギリス製最新式の
戦艦・兵器を日本に流してくれた。
ヨーロッパのロシア艦隊が太平洋に向かう際、
イギリスの港を貸さないなどの援護もした。
これによってロシアのバルチック艦隊を
かなり衰弱させることができた。
戦費調達に苦戦

フランスとドイツはロシアを経済支援し、
アメリカ・イギリスは経済的に日本を支援した。
戦争には大量の輸入が必要であり、
そのために大量の外貨が必要である。
しかし、
誰もがロシアの勝利を想定するので、
日本の外債は買い手がつかない……
利息を7%と高く設定して掻き集めたら、
なんとかアメリカの実業家が貸してくれた。
(この時に活躍したのが高橋是清である)
国交断絶⇒開戦
- イギリスが味方についた
- 戦費が調達できた
ここで覚悟を決め、戦争を決断する。
朝鮮半島と満州に出兵し、日露戦争が勃発した。
陸と海の戦い

当時の戦争に戦闘機はないので、
陸と海の戦いになる。
日清戦争にかけたカネは国家予算1年分だが、
日露戦争には7年分の「超」本気で挑んだ。
戦力では劣っていたものの、
イギリスが常に最新情報を流してくれたので、
効果的な作戦をとることができた。
海が重要

リャオトン半島の戦いは、陸の戦いだが、
リャオトン半島に兵を運ぶのは軍艦である。
持参できる弾薬・食料は5日分。
戦闘は半年も1年も続くので、
補給をし続けなくてはならない。
補給路が断たれれば陸軍は干上がる。
日本としては「海で勝たなくては全滅」である。
ロシア海軍の駐屯地は、
旅順とウラジオストクの二ヵ所であった。
ロシアは双方から海上補給路を潰しに来るので、
日本はルートを死守することになる。
つまり、
リャオトン半島の奪い合いは、海上戦でもある。
旅順攻囲戦

ロシアはクリミア戦争などの経験から
要塞戦に強く、機関銃を豊富に揃えていた。

それでも機関銃(マシンガン)相手に特攻を繰り返し、
第1回、第2回の総攻撃は跳ね返され、
3回目の総攻撃でようやく旅順要塞が陥落した。
大量の犠牲で辛勝

兵の突撃死・特攻死を前提にした消耗戦であり、
まったく褒められた戦術ではないが
1年かけて大量の犠牲が出しつつ勝利した。

そこでロシアはヨーロッパに配置している
世界最強「バルチック艦隊」を日本海へ向けた。
ウラジオストク艦隊とバルチック艦隊で
挟み撃ちにする作戦である。
この情報はイギリス軍が日本に伝えられ、
日本はバルチック艦隊到着前までに決戦を望む。
いっぽうロシアは後退戦術によって、
艦隊到着まで時間を稼ぐ方針をとった。
奉天会戦
ロシア軍36万 vs 日本軍24万での決戦である。
この会戦は世界史上でも最大規模であり、
双方合わせて60万の兵が18日間に激突した。
日本としては、バルチック艦隊が
到着する前に日露戦争の決着をつけたい。
ホームとアウェー

日本軍はアウェー戦であるため、
本来ならば兵数は3倍の100万ほど欲しい。
ロシア軍による強固な防衛線と猛攻により、
日本の国力を超えた補給が続かず消耗……
伸びきった補給線により、物資も兵も届けられず、
これ以上進めなくなってしまう。
日本が一応、勝利

いっぽうロシアの補給線は優れている上、
ロシアの陸軍は200万(日本の10倍)おり、
後方支援含めまだ半分しか動員していない。
つまり、ロシアにはまだ予備戦力がある。
ここでロシアが戦略的に撤退したので、
無人の奉天に日本軍がなだれ込んだ。
なぜロシア軍が撤退した?

ロシア側の士気低下が著しかったのもあるが、
日本軍は徒歩で進軍してくるのに対し、
ロシア軍は鉄道で撤退できた。
ロシアとしてはバルチック艦隊が
極東に向かっている……
ここで無理をするより日本の海軍を全滅させ、
海上補給路を断って陸軍を衰弱させればいい。
ところが、そんな計算通りにいかなくなる。
ロシアの内乱

味方のフランスがドイツと敵対してしまう。
ロシアもドイツを警戒しなくてはならなくなり、
ヨーロッパへの戦力が必要になった。
さらにロシア国内で革命が始まったりと、
極東どころでなくなってしまう。
それでも交渉に応じず

いっぽう奉天会戦の勝利に沸いた日本では
戦争継続論が強まった。
とはいえ日本も消耗しておりアメリカを通して
ロシアと講和しようともちかけた。
バルチック艦隊で一発逆転を狙うロシアは、
これに応じなかった。
バルチック艦隊で海上補給路を断ち、
孤立して疲弊させてから粉砕する作戦には
それだけの自信があったのである。
バルチック艦隊が衰弱
休憩も修復もナシで地球を半周したおかげで
世界最強の艦隊が満身創痍になってしまった。
戦艦も兵もボロボロ

ヨーロッパから日本海は地球半周にもなるが、
日英同盟でアフリカ・インドで寄港できない。
日英同盟による圧力があり、
フランスの支配地でも寄港させてもらえない。
いくら秘密の露仏同盟を組んでいても、
フランスはイギリスを敵に回してまで
港を貸すほどの義理はない。
戦艦が疲弊

結局、ロシアのバルチック艦隊は
7ヵ月間寄港も補給もできず、陸上にも上がれず……
質の悪い石炭を大量に積んで進むしかない。
戦艦は過剰な燃料や物資を積み、
ノーメンテナンスで速度が落ちていた。
何ヶ月かに1度はフジツボやカキなどを
落さないと水流が乱れスピードが低下する。
兵が疲弊

兵は心身ともに疲弊し、ストレスは限界、
士気は極度に低下していた。
そのうえ、旅順艦隊・ウラジオストク艦隊は
壊滅しており、単独で戦うしかない。
日本海軍はバッチリ

月月火水木金金……
土日ナシで砲撃の猛特訓をした。
疲れれば陸上で休息でき、補給も充分。
最高の練度と士気など準備万端で臨んだ。
つまり、
バルチック艦隊は戦艦も兵もボロボロだが、
日本海軍は戦艦も兵もバリバリだった。
日本海海戦

日露戦争の英雄「東郷平八郎」が
世界最強「バルチック艦隊」を
ほぼ無傷で壊滅させた。
これで欧米列強は日本に対して驚愕した。
歴史的大勝利

バルチック艦隊の通るルートを読み、
スピードが落ちたバルチック艦隊を先回りした。
バルチック艦隊の戦艦一隻に対し、
日本は複数艦で大砲を集中砲火できた。
どちらも限界に
日本は国家予算の7倍を使い切り、
常備兵力の5倍を動員し、もはや継続不可能……
食料・弾薬も尽き、8万以上の戦死者で満身創痍。
ロシアは長引く戦争で、しかも日本ごときに負け、
国民が重税に怒り狂い各地で反乱を起こした。
双方が戦争の続行が不可能となり、
ついにロシアも和睦のテーブルについた。
ポーツマス条約で手打ち

ここでアメリカが仲介し、
ポーツマス条約を結んで終戦となる。
樺太の南半分を割譲されただけで、
残り3つは単なるレンタル権を得ただけ……
狭い面積の領土を切り分けられただけで、
敗者の証「賠償金」は1円も受け取れなかった。
ロシア「敗戦ではなく、停戦」
アメリカ「これで我慢しろ」
日本「……。」
え、これだけ?

日本がロシアをKOしたのではなく、
アメリカが審判の時間切れ判定勝ち。
有利な状態で終戦しただけ。
重税や人手不足を我慢してきた国民は
納得できずに暴動が発生した(日比谷焼打ち事件)。
とはいえ、
日本は「もうこれ以上戦えない」状態であり、
それがロシアにバレずに済んでいる。
朝鮮・満州利権などを確保できたから
これ以上は引っ張れなかった。
その後のロシア
極東への南下政策を断念し、
その矛先は再びバルカン半島に向かった。
背後を安定させるため、日本とは共存共栄を選ぶ。
これによって極東の平和がもたらされた。
ロシア革命へ

バルカンへの浸出でドイツ勢力と対立し、
第一次世界大戦になる。
その後、ロシア革命で崩壊し、
ソビエト連邦が誕生する。
日露戦争の勝因
日本が死にもの狂いで戦ったのもあるが、
イギリスが味方をしてくれたのが大きい。
日本の勝因

- イギリスによる寄港ブロック
日英同盟でバルチック艦隊が疲弊 - イギリスが最新情報を流した
暗号解読力の差をカバーできた - 最高レベルのイギリス製戦艦
海軍はロシアと同レベルだった - 日本兵の士気の高さ
- 日本兵の練度の高さ
射撃・砲撃での命中率が高い - アメリカが大金を貸してくれた
- アメリカが好意的中立を引き受けた
恩を売って中国へ浸出という下心あり - 海戦(ホーム)で完全勝利した
- 陸戦(アウェー)で勝利した
- 外交の根回しを徹底していた
- 資金調達に成功した
- 早期から講和を想定していた
この頃の日本軍は賢かったが……
ロシアの敗因

日英同盟で他の国が協力しなかった
ロシアに協力すればイギリスと戦争に- フランスによる寄港ブロック
させると日英同盟でイギリスと戦争に - 日本の軍事力を低く見積もり過ぎた
日本をナメ過ぎていた - 遠隔地で本領発揮できなかった
- 極東までシベリア鉄道1本しかない
- ロシアの国内が内乱
ツァーリ(皇帝)信仰が崩壊 - 世論が厭戦ムード
これ以前にもヨーロッパで連戦 - ロシア兵の練度の低さ
- 一軍はヨーロッパ戦線、極東は二軍
- ロシア兵の士気の低さ
極東は単なる局地戦の1つでしかない
まとめ
ロシアにとっては単なる領土拡大政策の一環、
日本にとっては国の存亡がかかった一戦であり、
本気度がまるで違った。
日露戦争の結果を正確に言えば
勝利というより「好条件での停戦」となる。
(勝者の証である賠償金を得ていない)
使ったカネや失った兵ほどの見返りは、
残念ながら得られていない……
日本側は歴史的大勝利との認識である一方、
ロシア側は負けたとすら思っていない。
「僻地の局地戦で撤退しただけ」であり、
敗戦ではなく「単なる停戦」との認識のため、
ロシアでは歴史の教科書に載っていない。
とはいえ、日露戦争には70名以上の観戦武官が
欧米を中心に派遣されていた。
彼らが「日本の強さは本物である」と世界に広め、
大日本帝国は欧米列強と同等に認められた。
米英仏独すら恐れいたロシアを倒したことで、
不平等条約の改正や列強国への仲間入りを果たす。
日本の勝利に熱狂したのは、
トルコ・ポーランド・フィンランドなど、
ロシアの脅威に晒されていた国だけではない。
欧米列強の植民地支配を受けていたような、
アジア諸国も同様である。
勝ったとはいえ日本は列強国に遠く及ばず、
国力を超えた戦争で衰弱しきっていた。
だが、世論は「ロシアに連戦連勝で楽勝」
「日本は列強と並んだ」と勘違いてしまった。
さらに第一次世界大戦でもボロ儲けし、
勘違いが暴走し国全体がおかしくなっていく……
そして、太平洋戦争での悲劇を産むことになる。