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【武将ランキング】地図「75戦国大名」勢力図年表石高一覧を紹介

サイコパス信長、種無し秀吉、ウンコ漏らし家康、
アル中謙信、謀略王毛利元就、暗殺王宇喜多
下剋上イケメン陶晴賢、2人の服部半蔵、ヤンキー正宗
バカ殿ノブオ、ジュリエット松姫、悲劇の駒姫…他75名。

戦国時代(15世紀末~16世紀末)では
わずか100年の間、あまりに多くのことが
同時進行で起こりワケがわからない。
それらを理解しやすいよう、ランキングで示す。
同じイベントでも、それぞれの立場から
検証することで理解を深めたい。

できるだけ多くの人物を登場させたいので
ランキング登場は、1度だけとする。
 ※数字はすべて目安程度に考えてほしい

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戦国大名・武将ランキング

目次(クリックでジャンプ!)

武勇ランキング織田信長本多忠勝立花宗茂
優等生ランキング徳川家康北条氏康蒲生氏郷
策略ランキング豊臣秀吉毛利元就宇喜多直家
攻撃力ランキング島津義弘武田信玄雑賀衆
かぶき者ランキング伊達正宗森長可前田慶次
無能ランキング大内義隆毛利輝元朝倉義景
軍師ランキング竹中半兵衛黒田官兵衛山本勘助
やらかしランキング明智光秀石田三成北条氏政
アル中ランキング小早川秀秋上杉謙信龍造寺隆信
ツイてないランキング今川義元豊臣秀次大友義統
イケメンランキング陶晴賢前田利家直江兼続
美女ランキング淀殿(茶々)お市の方細川ガラシャ
悲劇の姫ランキング駒姫鶴姫松姫
バカ殿ランキング松倉勝家織田信雄佐々成政
ネタキャラランキング松永久秀薄田兼相石川五右衛門
珍キャラランキング大友宗麟弥助信濃の歩き巫女

【ランキングで紹介しきれなかった大名etc.】
顕如最上義光真田幸村武田勝頼
服部半蔵斎藤道三濃姫森蘭丸
織田信忠柴田勝家蜂須賀小六六角義賢
浅井長政足利義昭筒井順慶千利休
豊臣秀頼高山右近後藤又兵衛藤堂高虎
福島正則尼子晴久長宗我部元親
加藤嘉明加藤清正宮本武蔵天草四郎
★全体の流れ★

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武勇ランキング 【優勝】

【優勝】 織田信長(700万石)

  • 1534年 織田家の分家で誕生
  • 1549年(15) 濃姫と結婚
  • 1551年(18) 父の死去で織田家を継ぐ
  • 1559年(26) 尾張をほぼ統一
  • 1560年(27) 桶狭間の戦い★
  • 1571年(38) 比叡山焼き討ち
  • 1573年(40) 武田信玄 病没★
       同年 足利義昭を追放
       同年 安土城を築城
  • 1582年(49) 甲州征伐⇒武田家滅亡
       同年 本能寺の変

    人生をひっくり返したラッキーは★の2回

殺してしまえ ホトトギス

戦国時代最高の英雄である。
……が、長島一向一揆の鎮圧や比叡山焼き討ちで
人を虫ケラのように殺したり、
道具のように使ったりサイコパスな一面もある。
ゆえに裏切られた回数がもっとも多い武将でもある。
桶狭間の戦いでは今川勢4.5万を兵2000で撃破し、
尾張統一⇒快進撃で勢力を急拡大した(27)。

信長包囲網で大ピンチになるものの、
武田信玄の急死で命拾いする(40)。
エース信玄が消えて包囲網は崩壊する。
信長・家康のタッグでまた快進撃が始まり、
一気に畿内統一を成し遂げた。

ところが、天下統一のメドが立った瞬間、
本能寺の変を起こされてしまう……
いずれにせよ、戦国時代の核は信長の行動であり
信長の前では秀吉も家康も脇役に過ぎない。
戦国大名は「信長との年齢差」を意識すると、
イベント時期をイメージしやすい。

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武勇ランキング 2位

本多忠勝

  • 1548年 愛知県岡崎市に産まれる
    (信長の15歳下、家康の6歳下)
  • 1560年(13) 桶狭間の戦いで初陣
  • 1573年(26) 三方ヶ原の戦い
  • 1582年(35) 本能寺の変⇒伊賀越え
  • 1584年(37) 兵500で秀吉軍2万を止める
  • 1590年(43) 家康が江戸へ⇒10万石の大名に
  • 1600年(53) 関ヶ原の戦い
  • 1610年(63) 死去

輝かしい戦歴

「トンボが出れば、クモの子散らす」
徳川四天王最強の男……単騎No.1の猛将であり
57戦無敗、かすり傷1つなし。
愛槍「トンボ切り」は伝説の武器の1つ。

三方ヶ原の戦い(26)では武田軍の恐怖でウンコを
漏らした家康(30)を、決死の防戦で逃がした。
武田軍
「家康に過ぎたるものが2つあり、
 唐の頭に本多忠勝w」
※唐の頭:白い毛がフサフサのカッコいい兜

小牧長久手の戦い(37)では家康を逃がすため、
死を前提に、秀吉軍2万を500の兵で迎え撃つ。
その忠義の高さに、敵である秀吉が涙したほど……
(でもかすり傷1つ負わずに撤退成功)

信玄「臆病者の家康にはもったいないわ!」
信長「花も実も兼ね備えている」
秀吉「日本第一、古今独歩」
家康「だっふんだぁ」

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武勇ランキング 3位

立花宗茂

  • 1567年 大友家重臣の跡継ぎで誕生
    (信長の34歳下)
  • 1584年(18) 1000の兵で8000を撃退
  • 1587年(21) 九州討伐⇒築後13万石
  • 1592年(26) 朝鮮出兵で獅子奮迅の活躍
  • 1600年(34) 関ヶ原西軍所属⇒浪人
  • 1603年(37) 徳川家へ⇒1万石で復活
  • 1620年(54) 築後10万石で復帰
  • 1642年(76) 江戸で死去

カッコいいとはこういうことだ

生まれつきの天才が、実父養父の2人からの
英才教育とスパルタ教育で神童となる。
養父(68)は雷神「立花道雪」……顔が既にヤバい。
この男は傑物であり、顔は怖いが家臣想いだった。
実父も傑物であり、最後に大手柄を立てた。
兵750で島津軍数万を半月止め、
時間を稼いで討死した。
そのおかげで秀吉の九州征伐援軍が間に合い、
宗茂は撃退して城まで落とす。

立花宗茂の存在があったために、
戦国最強「島津氏」が九州制圧すらできず……
朝鮮出兵撤退戦では包囲された小西を見捨てず
「一人でも戦う」と敵の大軍に突っ込む。
宿敵であった島津義弘すら胸を打たれ、同調した。

宗茂「勝敗に拘らず」
関ヶ原の戦い(34)では家康から50万石で
スカウトされたもかかわらず、
豊臣家への義理を果たすため、迷わず西軍へ
敗戦して浪人にまで落ちぶれてしまう。
しかし、
家康「野に埋もれさすのは惜しい」
元の領地で大名として復帰する。

宗茂「道を外したことはない」
豊臣秀吉
「東国無双の本多忠勝、西国無双の立花宗茂」

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優等生ランキング 【優勝】

徳川家康

  • 1542年 三河国領主の跡継ぎで誕生
    (信長の8歳下)
  • 1547年(6) 今川に人質(謀略で織田へ)
  • 1560年(19) 桶狭間の戦い⇒岡崎城に復帰
  • 1564年(23) 三河一向一揆★
  • 1572年(31) 三方ヶ原戦★⇒脱糞
  • 1579年(38) 長男に切腹命令
  • 1582年(41) 本能寺の変伊賀越え★
  • 1590年(49) 江戸へ国替え
    頑張って国造り⇒250万石
  • 1600年(59) 関ヶ原の戦いに勝利
  • 1615年(73) 大阪の陣で豊臣家滅亡
  • 1616年(74) 天麩羅?胃癌?で死去

    ★印が家康の三大危機とされる。

鳴くまで待とう ホトトギス

家康は「超」ラッキーボーイだった。
桶狭間の戦いのドサクサで三河を難なくゲットし、
仲良くしたお隣さんが、たまたま信長だった。
信長の腰巾着やってたから領土は安堵され続け、
秀吉の言うこと聞いてたら、寿命で死んで、
最後にオイシイ所を全部かっさらって天下人に。

三大危機をはじめ、影武者説まで出るほど何度も
死に目に合ったが、幸運にも生き延びた。
特に「本能寺の変」直後の「伊賀越え」では、
落ち武者狩りの頻発地帯を、手勢わずか30名で
最短距離にて一気に駆け抜けた。
家康は運動神経抜群なのである(泳ぎも達者)。

「自分より優秀な者を部下にする」という
信長も秀吉もできなかったことが、できた。
どんなに信長が不利になっても裏切らず共に戦った。
「信用できる人物」だったから、人が集まる。
さらにオールラウンダーであり、
戦・調略・政治・経済……何をやらせても巧かった。

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優等生ランキング 2位

北条氏康

  • 1515年 北条家の跡継ぎで誕生
    (信長の19歳上)
  • 1530年(16) 初陣⇒上杉大軍に勝利
  • 1546年(32) 関東連合8万を1.1万で撃退
  • 1554年(40) 甲相駿三国同盟を結ぶ
  • 1560年(46) 上杉謙信(31)10万を撃退
  • 1571年(57) 病没

越後の龍(謙信)、甲斐の虎(信玄)と並ぶ
「相模の獅子」である。
武勇も策略も優れ、本人が出陣すれば無敗……
戦・政治・経済に非の打ち所がない。
が、「酒は朝に適量飲む」など神経質な一面も。

背中の傷は武士の恥……
先陣を切る猛将タイプにもかかわらず、
背中に1つも傷がない武勇の高さを誇る。
32歳には関東の連合軍8万を1.1万で撃退する。
自ら先陣を切って兵の士気を爆上げさせ、
8万の敵に突っ込んでいったという。
46歳では小田原城を難攻不落に改造すると、
上杉謙信の軍10万を籠城戦で撃退した。

一般的には五公五民(税率50%)だが、
氏康は税率40%と善政を施した。
家臣や子供の教育にも優れ、
当時は珍しく死後の家督争いもなし。
武将として、政治家として、父としてほぼ満点。
しかし、息子(氏政)がやらかした……

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優等生ランキング 3位

蒲生氏郷

  • 1556年 六角氏重臣の3男で誕生
    (信長の22歳下)
  • 1568年(12) 織田家の人質となる
  • 1582年(26) 本能寺の変⇒織田一族を保護
  • 1584年(28) 長久手戦⇒12万石大名へ
  • 1590年(34) 小田原征伐⇒会津42万石
     その後、検地で92万石
  • 1595年(39) 死去

人質からスタート

秀吉「10万の兵を率いたら誰が一番強いか?」
徳川家康・前田利家を挙げる家臣が多い中、
秀吉は「蒲生氏郷」と言い切った。
信長からは気に入られ、秀吉からは警戒された。

(cited from “https://koboku.jp/item/pg_sgk_gamouujisato_01.html”)

「先鋒隊の鯰尾兜の男に負けないように」
そう言われた家臣が戦場で探すと……
なんと氏郷本人だった。
その後は自ら先陣を切って突撃する姿を見せ、
家臣らを奮起させたという。

秀吉は天下取りを諦めさせるため、会津へ転封。
領地は12⇒42万石に増えたものの、
実は天下を狙うため京の近くにいたかった……
それを秀吉に見抜かれ、遠くに飛ばされ、
「天下を取れる位置にあらず」と悔し涙を流した。
その後、わずか39歳で死去する。
(直腸癌?秀吉の毒殺?死因は謎)

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策略ランキング 【優勝】

豊臣秀吉

  • 1537年? 水呑み百姓のもとで産まれる
    (信長の3歳下?)
  • 1554年(17) 信長の小者(雑用係)
  • 1559年(22) 草履を懐で暖める
  • 1561年(24) おねと結婚(自由恋愛)
  • 1564年(27) 足軽大将(≒100人長)
  • 1565年(28) 侍大将(≒1000人長)
  • 1566年(30) プレハブ砦を数日で築く
  • 1573年(36) 浅井滅亡⇒12万石大名に
  • 1582年(45) 本能寺の変
       直後 ⇒中国大返し⇒光秀討伐
  • 1588年(51) 刀狩令
  • 1590年(53) 小田原征伐⇒天下統一
  • 1592年(55) 朝鮮出兵①
  • 1595年(58) 秀次事件
  • 1597年(61) 朝鮮出兵②
  • 1598年(62) 病没

鳴かせてみせよう ホトトギス

雑用係⇒足軽⇒足軽大将⇒侍大将⇒大名と、
絵にかいたような出世をしていく。
ただし、大出世の成功物語は30歳の
プレバブ城からであり、遅咲きといえる。
中国大返しは山道を重い甲冑・武器で速歩き。
さらに梅雨で河川の増水もあり、甲冑は蒸れ、
泥の上で野宿、精神的にもキツかっただろう。

Cited from “https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Osaka_Castle_Park_20071230.jpg”.

人たらしの天才で、とくにかく人を使うのが巧い。
味方と仲良くするのも敵同士を仲違いさせるのも、
寝返らせるのも、普通に協力を仰ぐのも得意。
そして、とても気前がいい。
少しの武功で多くの恩賞を与えていた。
頭が良いだけでなく、度胸もスゴかった。
カネと時間をかけた城攻めが得意であり、
戦では次々に大博打を打ち、勝ち続けた。
兵糧攻め・水攻め・小田原城包囲……
他の大名が思いつかないような
スケールの大きい戦いを採算度外視で実行した。

しかし一代で、しかも急拡大した勢力である。
代々の重臣がおらず、恩賞と恐怖支配の
アメとムチで「人望」は育たなかった……
天下統一後の晩年は暴君と化し、
意味不明な朝鮮出兵や秀次事件など、
残念な老害のまま人生を終えた。

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策略ランキング 2位

毛利元就

  • 1497年 土豪の次男として誕生
    (信長の37歳上)
  • 1506年(10) 父がアル中で死亡
  • 1507年(11) 城を追い出されて孤児に
  • 1516年(20) 兄がアル中で死亡
  • 1517年(21) 四国版桶狭間の戦いで初陣
  • 1540年(44) 尼子3万を3000で撃退
  • 1555年(59) 厳島の戦い(3万に0.5万で勝利)
  • 1557年(61) 1年かけ大内氏を滅ぼす
  • 1566年(70) 尼子が降伏⇒中国覇者120万石
  • 1569年(73) 4万で大友攻め
  • 1571年(75) 死去

謀略王

厳島の戦い(59)ではイケメン下剋上「陶晴賢」の
大軍3万を島の狭い場所におびき出し、
0.5万の奇襲でアッという間に壊滅させた。

謀略に次ぐ謀略により、小数の兵で大軍を倒す……
220戦で勝率は8割を誇るものの、
裏工作で制した地味なイメージがある。
合戦に次ぐ合戦の生涯であった。
手紙も説教もクドクドと無駄にやたらに長いので、
ネットリした性格であったと予想される。

戦以外でも積極的な領土拡大をする。
自分の子供を次々に周辺諸国へ養子として
送り込み、後を継がせ、自然に乗っ取った。
田舎の土豪から120万石の大大名になったが、
元就は信長の1/10の規模からのスタートであり、
初期の難易度はケタ違いである。

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策略ランキング 3位

宇喜多直家

  • 1529年 浦上氏家臣の宇喜多家に誕生
    (信長の5歳上)
  • 1534年(6) 祖父が討たれ父と放浪生活
  • 1540年(11) 父が自害⇒牛飼い
  • 1559年(29) 妻の父を殺害⇒離縁
  • 1561年(31) おホモだち作戦で豪傑暗殺
       同年 自ら海賊になって海賊退治
  • 1566年(36) 鉄砲で暗殺(日本初)
  • 1567年(37) 明善寺戦⇒2万を0.5万で撃退
  • 1568年(39) 長女の夫を殺害⇒長女自殺
  • 1570年(41) 言いがかりで切腹⇒岡山城GET
  • 1572年(43) 秀家(跡継ぎ)が誕生
  • 1575年(46) 浦上撃退⇒岡山制覇
  • 1581年(52) 伊賀久隆を毒殺
  • 1582年(53) 岡山城にて病没

暗殺王

Cited from “https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Okayama_Castle_02.jpg”.

放浪生活のうえに父が自殺という
厳しいスタートであった……
祖父を討った男に「謀反の疑いあり」と
噂を流し、殺害させる。
嫁の父も謀反の容疑で殺させ、お家を丸ごと頂戴。
岡山城は濡れ衣を着せ、切腹させてGet。

暗殺に次ぐ暗殺、裏切りに次ぐ裏切りで
岡山を代表する大名にまで成り上がった。
刃物や毒だけでなく、美少年や鉄砲など
暗殺のバリエーションは豊富である。

寿命が近いことを悟った直家には
幼い跡継ぎの息子がいた。
勢力を急拡大していた家臣は急死wし、
裏切りそうなヤツがいなくなったら、本人も昇天。
数々の悪行にもかかわらず、畳の上で死んだ(53)。
意外なことに、家臣にだけは優しかったので
人望はあったという。

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攻撃力ランキング 【優勝】

島津義弘

  • 1535年 島津家の2男で誕生
    (信長より1歳下)
  • 1572年(38) 木崎戦(3千を3百で撃破)
  • 1578年(44) 耳川の戦い⇒大友宗麟撃破
  • 1584年(54) 沖田畷の戦い⇒竜造寺撃破
       九州最大勢力165万石に
  • 1587年(53) 秀吉の九州征伐で降伏
  • 1560年(66) 関ヶ原西軍敗退⇒敵中突破
  • 1619年(85) 死去

戦国最強軍団

戦国最強と聞いて最も多くの人が
名を挙げるのが鬼島津こと島津義弘であり、
その軍は武士団というより狂戦士団に近い。
イケメン陶と毛利が厳島で戦っている時には
九州の小国家の1つに過ぎなかったが、
あっと言う間に九州三大勢力にのし上がった。
木崎の戦い(38)では3000の兵相手に
300の兵で奇襲攻撃をかけ、
九州の桶狭間とも呼ばれる大勝利をする。
耳川の戦いで大友を撃破すると、
一気に勢力を拡大した。

本能寺の変が起きた頃の九州は、
大友・龍造寺・島津の三国志状態であった。
そこから一人勝ちし九州統一……というところで、
秀吉の九州平定が始まってしまう。

島津軍3.5万・秀吉軍10万以上にもかかわらず
義弘は最前線で獅子奮迅の活躍を見せ、
徹底抗戦を主張したが、お家存続のため降伏する。
朝鮮出兵では3万の敵に7千で勝利するなど、
大活躍し「鬼島津」と敵から恐れられた。
関ヶ原の戦い(66)では、撤退戦「島津の退き口」で
何万もの敵の大軍の中を300騎で中央突破した。

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攻撃力ランキング 2位

武田信玄

  • 1521年 武田家の跡継ぎで誕生
    (信長の13歳年上)
  • 1538年(18) 長男「義信」誕生
  • 1541年(21) 父を駿河に追放
  • 1548年(28) 村上氏に大敗
  • 1553年(33) 信濃を平定⇒謙信挙兵
       同年 川中島の戦い①
  • 1554年(34) 甲相駿三国同盟
  • 1555年(35) 川中島の戦い②
  • 1557年(37) 川中島の戦い③
  • 1561年(41) 川中島の戦い④
  • 1564年(44) 川中島の戦い⑤
  • 1567年(47) 義信を自害させる
  • 1572年(52) 三方ヶ原の戦いで大勝
  • 1573年(53) 西に快進撃120万石⇒急死

情報戦の名手

結婚翌年に母子が出産で死亡したり、父を追放したり、
息子を自害させたり、家族には恵まれず……
この頃の武田家は、まだ領土も小さかった。

まずは信濃に領土を急拡大していく。
信濃侵略によって国衆が上杉家に泣きついたため、
謙信と川中島で5回も戦うことになる。
鐘を鳴らすと家臣が水を流すという、
手動の水洗トイレを作ったり、意外にも綺麗好き。

三方ヶ原の戦い(52)では籠城戦の予定だった家康を
まんまと城の外におびき出して野戦に変え、
背後を狙う家康を、見事に返り討ちにした。
家康は恐怖で脱糞してクソまみれになりながら
家臣たちを次々に身代りとし浜松城に逃げ帰った。
西方に快進撃が始まり、信長を討ち取って上洛……
というところで持病が悪化してしまい、
ポックリ死んでしまった。
本能寺の変と同様、コレで人生が狂った者は多い。

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攻撃力ランキング 3位

雑賀衆

  • 1543年 種子島に鉄砲伝来
    (信長9歳の時)
  • 1570年 石山合戦で織田軍撃退
  • 1577年 信長(43)の雑賀討伐⇒降伏
  • 1580年 石山合戦和睦⇒織田派の誕生
  • 1582年 本能寺の変
  • 1585年 秀吉(48)の雑賀討伐⇒滅亡

鉄砲傭兵集団

Cited from “https://commons.wikimedia.org/wiki/File:EdoJapaneseArquebuse.jpg”.

「さいかしゅう」と読む。
もともと彼らは造船技術に優れており、
南蛮貿易の要である「種子島」にて
珍品や珍物を購入し、大坂などで売り儲けていた。
ポルトガル船にあった「アーキバス」なる珍物を
刀鍛冶に改造させて「鉄砲」を生みだす。
それは珍品でも珍物でもなく、
今後の戦そのものを変える「珍宝」だった。
そう、珍宝を改良した物が鉄砲なのである。
初期には一丁=車1台くらいの値がついた。

その後は鉄砲傭兵軍団として発達し、
彼らの雇用が勝敗を左右するまでになる。
彼らは「誰にも従わない自由人」であり、
敵対勢力に雇われたらやっかいな存在だ。
信長は彼らを雇ったが、秀吉は違った……

秀吉「従わないのなら滅ぼす」
火責めで火薬庫を爆破し、水責めで鉄砲を弱体化し、
10万の兵で攻め込んで滅亡させた。

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かぶき者ランキング 【優勝】

伊達正宗

  • 1567年 米沢城で誕生
    (信長の33歳下)
  • 1571年(5) 天然痘で右目失明
  • 1585年(19) 人取橋の戦いで大敗
    秀吉シカトし連戦で150万石に
  • 1590年(24) 小田原討伐に大遅刻
    秀吉に死装束で土下座⇒領地半分に
    1591年(25) 一揆扇動がバレる
    死装束+金の十字架で土下座
  • 1593年(27) 朝鮮出兵①
    ド派手なパレード(伊達者の語源)
  • 1601年(35) 仙台へ(62万石)
  • 1615年(49) 大坂夏の陣
  • 1636年(70) 病没

田舎のヤンキー

親戚関係をシカトして戦を仕掛けまくり、
女子供だろうが容赦なく惨殺しまくる。
「コイツを生かしておくのはヤバい」
とうほぐの大名が団結するも、蹴散らした。
小大名相手に連戦連勝で調子ノリ助になる。
でも、井戸のカエルに過ぎなかった……

秀吉の戦争禁止令をシカトして激怒され、
死装束土下座パフォーマンス(24)でなんとか許される。
次の年は一揆扇動がバレてまた切腹の危機……
今度は死装束プラス十字架背を負って土下座した。
関ヶ原の戦いでは、徳川と上杉で和睦した後に
カツアゲに行って家康にキレられる。

最後の戦「大阪の陣」では
真田幸村にボコられて反撃したら、
味方を銃撃して全滅させちまった……シャバい。
老後は将軍家忠に慕われ、武勇伝を語り暮らす。
仙台藩は海外交易などナウい手法で62万石となり、
加賀103万、薩摩90万に次ぐ全国3位になったゼ!

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かぶき者ランキング 2位

森長可

  • 1558年 織田信長家臣の2男で誕生
    (信長の24歳下)
  • 1570年(13) 長男死亡で家督相続
  • 1573年(16) 初陣で27の首を取る
  • 1582年(25) 武田討伐⇒20万石
       同年 本能寺の変
  • 1584年(27) 長久手の戦いで討死

弟:森蘭丸が品行方正な美少年であるのに対し、
お兄ちゃんは瞬間湯沸かし器のムチャクチャな男。
槍の達人であると同時に、非常に気性が荒かった。

  • 関守を殺す⇒信長「弁慶みたいだなw」
  • 信長を無視して鉄砲をブチ込み開戦
  • 人質を盾に撤退⇒用が済んだら全員処刑
  • 天井をブチ破って乱闘し落城させる

長久手の戦い(27)では秀吉のもと参戦する。
ここは本当に、ツイてなかった……
雑兵の鉄砲玉がたまたま眉間を
撃ち抜いてしまい、ポックリ死亡してしまう。
いっぽう、遺言状は至極マトモだった。
本当は戦場で鬼になりたくなかったのである。

  • 千丸(末弟)が武将になるのはイヤだ
  • 千丸は跡を継がず、遺産で静かに暮らせよ
  • 妻は実家に戻りなさい
  • 妹は医者とかの嫁になりなさい
  • 城の跡継ぎは秀吉様に任せればいい
  • 母ちゃんは秀吉様のもとで安全に暮してね

この遺言を聞いた秀吉は涙を流して感動し、
まだ13歳の千丸を大名に取り立てたという。
話、聞いてねぇ……

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かぶき者ランキング 3位

前田慶二

  • 1553年? 滝川一益系で誕生?
    (信長の19歳下)
  • 1581年(28) 利家の家臣に(5千石)
  • 1582年(29) 本能寺の変
  • 1588年(35) 秀吉が会いたがる
  • 1590年(37) 前田利家から出奔
      京で浪人・文化活動
  • 1598年(45) 上杉家に仕官(5千石)
  • 1600年(47) 北の関ヶ原⇒長谷堂城戦
  • 1605年(52)? 米沢で死去

正体不明の人物

漫画「花の慶次」より引用

秀吉の前で猿の舞を踊ったり、
曲げを垂直にして挨拶するなどトンでもない男。
それがパフォーマンス好きの秀吉に喜ばれ、
「今後はいつどこでカブいてもよい」と
傾奇者の永久ライセンスを得る。

37歳で前田家を出て京で浪人となり、
京都で直江兼続(上杉家重臣)と知り合う。
「北の関ヶ原」では戦で集まってきた浪人の
まとめ役として、上杉家に5000石で雇われる。
荒くれ者を束ねて遊撃部隊を結成した。
(遊撃とは、本体と離れて攻めること)

上杉 vs 最上・伊達は「北の関ヶ原」とも呼ぶ。
(慶次は家康の敵方として上杉軍で参戦)
長谷堂城の撤退戦(47)では最上・伊達軍の追撃で
自害しようとする直江兼続を諌める。
わずか300の兵を率い、もっとも危険な最後尾で
ヒット&アウェイを繰り返し、追撃をブロック。
最小限の犠牲で皆を逃がすことに成功した。
この戦法は日本陸軍の戦術書で
手本とされたほど見事なものである。

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無能ランキング 【優勝】

大内義隆

  • 1507年 守護大名:大内氏で誕生
    (信長の27歳上)
  • 1528年(21) 父死去で家督相続
  • 1542年(35) 尼子戦で大敗
    文化人化して豪遊を続ける
  • 1551年(45) 陶晴賢(30)が謀反⇒自害

公家カブレのバカ殿

35歳で尼子に大敗し、跡継ぎを失う。
そのショックで戦への関心が完全に失せ、
宴会や歌会、能などに明け暮れる。
政治をないがしろにして豪遊し、
公家にカネをばら撒きだした。
そのための増税で領民が苦しみはじめる。

ついに陶晴賢(元愛人のイケメン)に
クーデターを起こされて自害する(45)。

推古天皇の飛鳥時代から続き、
日本で最有力とまで言われた名門家が
1代であっさり滅亡しちゃった。

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無能ランキング 2位

毛利輝元

  • 1553年 安芸で誕生
    (信長の19歳下)
  • 1563年(11) 父急死で家督継承
  • 1571年(18) 元就が死去で単独統治に
  • 1573年(20) 将軍義昭が京都追放
  • 1576年(23) 将軍義昭が頼ってくる
  • 1582年(29) 本能寺の変(命拾い)
  • 1597年(44) 豊臣五大老の1人に
  • 1600年(47) 関ヶ原西軍総大将⇒没収
  • 1625年(72) 死亡

なんとなく継いだボンボン

石山合戦で顕如を支援したため、信長と対立。
中国討伐で味方が集まらず、寝返られまくり、
秀吉にやられっぱなしでヤバかったが、
本能寺の変が起きたおかげで、命拾いする。
(信長の突然死で最も命拾いをした人間)

賤ヶ岳の戦いでは秀吉に恭順し112万石を安堵。
関ヶ原の戦いでは家臣の反対を押し切って
付き合いで西軍の総大将となるも、
東軍から所領安堵の打診を受けて兵は出さず……
どっちつかずのヘタレ扱いとなり、
112⇒30万石の大幅減転封を喰らう。

自分の意志が弱く、回りに流されて
貧乏クジを引いてばかり。
お爺ちゃん(元就)の代には西の毛利・東の織田と
言われるほどの巨大勢力だったのが、
孫(輝元)の代には単なる田舎大名に。
トホホ……

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無能ランキング 3位

朝倉義景

  • 1533年 名門:朝倉家の跡継ぎで誕生
    (信長の1歳上)
  • 1548年(16) 父の死去⇒家督相続
  • 1567年(35) 妻・息子(7)の死で無気力症
       同年 足利義昭の要請をシカト
  • 1568年(35) 義昭+信長の上洛要請を拒否
  • 1570年(38) 4月金ヶ崎戦⇒長政裏切りで命拾い
       同年 6月姉川の戦いで織田に大敗
  • 1572年(40) 浅井長政の援軍要請⇒半年で帰る
  • 1573年(41) 朝倉・武田で挟撃⇒雪で帰る
       同年 長政見捨てる⇒信長攻撃⇒自刃

器にあらず

将軍義昭+織田信長の上洛要請を拒否し、
4月には信長に攻め込まれた(35歳)。
この時はたまたま浅井長政が信長を
裏切って挟み撃ちしてくれ、命拾いする。
しかし6月には、
ブチ切れた信長にボコボコにされた。

織田包囲網では信玄が信長を追い詰め、
武田・朝倉で挟み撃ちになったのに、
雪が降ってきたのでバックレてしまう(41歳)。
その4ヵ月後に信玄がポックリ死して立場逆転。
信長・家康連合軍に猛反撃される。

信長の浅井攻撃でも、
長政を見捨ててバックレてしまう。
度重なる失態で、もはや人望は皆無だった。
バックレ途中で直属家臣が信長にどんどん寝返り、
あっという間に壊滅させられ、自害。
義景と共に出陣した2万人のうち、
最期まで周りにいたのは10名だけだった。

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軍師ランキング 【優勝】

竹中半兵衛

  • 1544年 美濃の国衆のもと誕生
    (信長の10歳下)
  • 1556年(11) 菩提山城で不破勢を撃退
  • 1563年(19) 織田勢を伏兵戦術で撃退
  • 1564年(20) 稲葉山城を16名で乗っ取る
  • 1567年(23) 信長に仕え、秀吉につく
  • 1570年(26) 金ヶ崎の退き口
  • 1573年(29) 小谷城の戦い(長政自刃)
  • 1575年(31) 長篠の戦い(武田撃破)
  • 1579年(35) 三木城兵糧攻め⇒陣中病死

危険人物な一面も

Cited from “https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Gifu_Castle.jpg”.

20歳ではダメダメな主君にお仕置きをするため、
16名で稲葉山城を乗っ取り、半年で返還する。
その件で信長からスカウトされるも断り、
逆に奇襲で織田軍を苦しめた。
その後は秀吉(30)からスカウトされ、織田軍へ。

  • 浅井・朝倉挟み撃ちの撤退戦で秀吉を助ける
  • 浅井長政の囮作戦を見破る
  • 小谷城が落城する寸前で信長の妹を救う
  • 兵力に劣る三木城戦を兵糧攻めで勝利
  • 毛利から宇喜多直家(暗殺王)を寝返らせる
  • 謀反を疑われた黒田官兵衛の息子を助ける
               (後の黒田長政)

秀吉は半兵衛の影響を受け、味方の被害を
最小限にすべく時間と手間をかけるようになる。
とはいえ秀吉に仕えたのはわずか10年ほど……
具体的な偉業などの記録はなく、謎の人物である。
創作エピソードも多いと思われるが、
秀吉のブレイン的存在だったのは確かだろう。
作戦専門の「軍師」なる職業自体が創作……
江戸時代に諸葛亮孔明のようにキャラ化……
かもしれないが、ナンでもカンでも
「創作」で切り捨てるのはツマランなぁ。

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軍師ランキング 2位

黒田官兵衛

  • 1546年 姫路城主の跡取りとして誕生
    (信長の12歳下)
  • 1569年(25) 姫路城籠城⇒1/10の兵で勝利
  • 1580年(35) 1万石の大名となる
  • 1581年(36) 鳥取城の飢え殺し
  • 1582年(38) 中国大返しを秀吉に進言
  • 1587年(43) 筑前12万石を拝領
  • 1600年(56) 関ヶ原⇒九州で大博打
       同年 関ヶ原⇒息子が52万石に
  • 1601年(57) 福岡城を築城
  • 1604年(59) 死去

完全に危険人物

鳥取城攻めでは人間に人間の肉や脳ミソを
食わせるまで飢え殺す、という鬼畜な作戦を実行。
翌年、秀吉と共に毛利攻めをしている最中、
信長自刃の報が舞い込んできた。
アタマが真っ白になっている秀吉に向かって、
「天下取りが見えてきましたなw」
さすがの秀吉(45)もドン引きする。

56歳になると、人生を賭けた大博打に出る。
関ヶ原の戦いのため、周辺大名が出陣すると……
全財産を解き放って兵をかき集め、
空き家となった西軍所属の城を攻め始めまくる。
一気に九州の北半分を制圧する快進撃を見せた。

九州を制覇して有終の美を飾る……
または九州・中国地方の勢力をまとめ、
関ヶ原の勝者と雌雄を決し、天下をとる……
どんな野望があってのことかは不明であるが、
関ヶ原の戦いは1日で解散してしまい、
夢の戦いも突然、終わってしまった。

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軍師ランキング 3位

山本勘助

  • 1500年? 三河?で産まれる⇒養子
    (信長の34歳上)
  • 1520年(20) 武者修行の旅に出る
  • 1536年(37) 今川家で就職活動失敗
  • 1543年(44) 信玄に100貫で雇われる
       同年 デビュー戦で城9つ落とす
  • 1546年(47) 50騎で猛将:村上を攪乱
  • 1546年(47) 足軽大将(800貫)
  • 1561年(62) 川中島の戦い④で討死

見た目で差別された

武者修行で城・地理・街・当主・武器・兵などを
自分の足で全国調べて回る。
片目しかなく、片足が不自由、指も揃っておらず、
体中傷だらけ……今川義元は雇ってくれなかった。
ところが武田信玄(23)は勘助(43)の器量を見抜き、
信玄は影響を受けて兵力兵数でのゴリ押しを控え、
温存する戦法をとるようになったほど。
武田五名臣として伝説的な軍師、と後世に伝わる。

第四次川中島の合戦(62)で上杉謙信と激突するも、
キツツキ戦法(囮作戦)を見破られる。
責任を感じた勘助は、死を覚悟して特攻し、
13騎を倒す獅子奮迅の活躍をするが……
68ヵ所の傷を負う壮絶な最期を遂げる。

ただしこの特攻で時間を稼いでいる間に、
キツツキ部隊が山から下りてきて本隊を援護。
引き分けに持ち込むことができた。

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やらかしランキング 【優勝】

明智光秀

  • 1528年(?) 斎藤氏家臣の家で誕生
    (信長の6歳上?)
  • 1557年(30) 朝倉義景に仕える
  • 1568年(40) 義昭と信長のセッティング
       同年 織田信長に仕える
  • 1570年(42) 浅井長政裏切りで最後尾を防戦
  • 1571年(43) 比叡山焼き討ちの実行部隊
  • 1572年(44) 近江5万石大名に
  • 1578年(50) 娘:玉子(15)を嫁に出す⇒ガラシャ
  • 1580年(52) 丹波国平定完了で34万石を拝領
  • 1582年(54) 本能寺の変⇒山崎で討死

あの日

戦績は18勝1敗と9割以上の勝率であり、
非の打ちどころがない。
生涯側室を持たなかった愛妻家で、
文化人としても名高い。

  • 5/15 家康接待中断⇒中国遠征支援
  • 5/17 居城:坂本城に戻り出陣準備
  • 5/26 丹波亀山城に移動
  • 5/27 信長を討つ歌を詠む
  • 6/1 家臣に謀反を打ち明け、京都へ
  • 6/2午前6時 本能寺の変
  • 6/3 秀吉が信長の死を知る
  • 6/4 秀吉と毛利の和平交渉
  • 6/5 安土城に無血入城
  • 6/6 秀吉が京都に出発(中国大返し)
  • 6/7 朝廷から贈り物
  • 6/8 秀吉が姫路城まで到達
  • 6/9 上洛(ここまで計算通り)
  • 6/10 味方募集⇒集まらず(計算が狂う)
  • 6/12 秀吉、もう京都へ(計算が超狂う)
  • 6/13 山崎の戦い⇒逃亡者続出で総崩れ
  • 6/14 大山崎IC付近で討死
  • 6/17 首と胴体をつながれ晒される

あれほど頭の切れる男が、本能寺の変(54)……
いったい何が起こったのだろうか?
信長1人を殺したところで、天下は取れない。
家臣たちが仇を討ちにくるのはわかったいたはず。
日本史上最大の謎である。
個人的には足利義昭の黒幕説が面白いと思った。

いずれにせよ、
光秀の出自が身分の高い家か低い家かも不明で、
斎藤道三に仕えていたのも確証はなく、
朝倉家にも明智光秀の記録はなく、
すべてが想像にすぎない謎の人物である。

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やらかしランキング 2位

石田三成

  • 1560年 近江(滋賀県)石田村で産まれる
    (信長の26歳下)
  • 1574年(15) 豊臣秀吉に仕える
  • 1583年(24) 賤ヶ岳の戦いで一番槍
  • 1586年(27) 堺町奉行
  • 1592年(33) 朝鮮出兵①で朝鮮総奉行
  • 1593年(34) 五奉行の1人となる
  • 1596年(37) 京都奉行
  • 1598年(39) 豊臣秀吉が死去
  • 1600年(41) 関ヶ原の戦いで敗北⇒処刑

コミュ力ゼロ

朝鮮戦争では戦ってもいないクセに偉そうにし、
武将たちからものすごく嫌われる。
秀吉の死後に家康の行動が目に余って、
「豊臣家に対する謀反」と関ヶ原の戦いを起こす。
しかし、日本は家康の一言で動く状態である。
秀頼に総大将を頼むも断られてしまい、
「目的のない戦争」になってしまった……

東軍8万(付き合い)「秀頼のために戦う(棒読み)」
西軍10万(寄せ集め)「秀頼のために戦う(棒)」
(直訳:オレ達はナンで戦ってるの?)
半日で決着⇒解散……グダグダのシケシケ。

もし本当に天下分け目の決戦だったのであれば、
わずか半日で解散するわけがない。
(「結果的に」家康の天下統一になっただけ)
皆さんだって歴史の授業でこう思ったはず……
「石田三成って誰?なんで家康と戦うの?」
実は、戦った兵たちも同じことを思っていた。

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やらかしランキング 3位

北条氏政

  • 1538年 北条氏康の2男で誕生
    (信長の4歳下)
  • 1559年(21) 家督継承(120万石)
  • 1561年(23) 上杉10万を籠城戦で氏康と撃退
  • 1571年(33) 完璧パパ:氏康が死去
  • 1573年(35) 武田信玄が死去
  • 1574年(36) 上杉謙信の関東侵攻
  • 1578年(40) 上杉謙信が死去
  • 1587年(49) 秀吉の合戦禁止シカト(240万石)
  • 1588年(50) 秀吉の上洛要請をシカト
  • 1589年(51) 秀吉が沼田領問題を仲裁
       同年 仲裁をシカトして攻め込む
  • 1590年(52) 秀吉の小田原征伐で切腹(0万石) 

調子ノリ助

「相模の獅子」北条氏康という
非の打ちどころがないパパの後を継ぐ。
秀吉は1980年代後半には九州征伐を完了させ、
天下統一のメドが立つと全大名に合戦を禁止した。
……が、シカトし続けて領地拡大を続ける。
ちょうど信玄も謙信も消えており、
小大名相手に連戦連勝で240万石になった。

さらに真田家と領土問題で揉め事を起こす。
北関東・越後・信濃の要所であり譲れず……
秀吉の仲裁案をシカトして真田の城に攻め込む。
さすがに秀吉がキレて、上洛と説明を求めるが
それでも上洛要請をシカトし続けた
「家康+正宗+オレ」なら秀吉に対抗できる、
そう考えての行動だったのだろう……
ついに、最後の審判「小田原征伐」が決定。

秀吉は近くの山にデカい城を一瞬で建て牽制した。
 秀吉「何十年でも包囲し続けてやる」
 北条「これほどまでとは……」
小田原城内では氏政が切腹して北条家滅亡。
秀吉は同じ理由で伊達正宗にブチキレていた。
城外では正宗が死装束土下座パフォーマンスをして、
伊達家はなんとか、首の皮一枚つながった。

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アル中ランキング 【優勝】

小早川秀秋

  • 1582年 おね兄の5男で誕生(秀吉の甥)
    (信長の48歳下)
  • 1584年(3) 秀吉の養子となる
  • 1589年(7) 丹波亀山城主10万石
      この頃から毎日酒を飲む
  • 1593年(12) 秀頼誕生⇒要らない子に
      毎日の酒盛りがやめられなくなる
  • 1594年(13) 小早川家に出される
  • 1595年(14) 秀次事件でアル中に
      筑前国主37万石
  • 1597年(16) 朝鮮出兵②で総大将
      ヘタレで15万石に減らされる
  • 1598年(17) 秀吉死去で筑前筑後60万石
  • 1600年(19) 関ヶ原西軍で裏切り
     裏切りの功労で備前美作55万石を拝領
  • 1601年(20) 飲酒や乱心で重臣たちが離反
  • 1602年(21) お酒の飲み過ぎで死亡

天下人候補だったのに……

秀次に次ぐ権力者になる予定のため、
諸大名の接待が続き、7歳から毎日酒を飲む。
秀吉(47)の養子(跡継ぎ候補)となるが、
運命の子「秀頼」が生まれてしまう。
秀次事件のショックで精神を病みアル中に変貌。
「次は自分の番かもしれない……」

関ヶ原では自分を追い出した秀頼のために西軍……
家康がそこを見逃すはずもなく、
東軍の使者から寝返りの打診が届く。
合戦当日に裏切りを決行して東軍大勝利となり、
プラス55万石で計115万石となる。
……が、2年後に過度の飲酒で急死する。

「天下の裏切り者」とされるものの、
東軍に寝返ることは合戦前に決心している。
秀頼のために命を懸けて戦う気になれない……
ヤツにはむしろ、死んでほしい……
その気持ちはわからんでもない。

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アル中ランキング 2位

上杉謙信

  • 1530年 末っ子で誕生
    (信長の4歳上、信玄の9下)
  • 1544年(15) 初陣で華々しい活躍
  • 1552年(22) 越後統一
  • 1553年(24) 川中島①(信玄と初対決)
  • 1561年(32) 10万で小田原攻め⇒撤退
       同年 川中島④(信玄と激戦)
  • 1566年(37) 関東諸国が上杉から離反
  • 1568年(39) 重臣が武田信玄と内通し謀反
  • 1570年(41) 北条氏康と同盟(越相同盟)
  • 1571年(42) 武田信玄が領内で一向一揆を扇動
  • 1573年(44) 武田信玄が急死
  • 1577年(48) 織田軍に大勝(秀吉は離脱)
  • 1578年(49) 過度の飲酒⇒急死

軍神ではあるが……

自分を「毘沙門天の生まれ変わり」と自認し、
出家してからは頭に白い布を巻いていた。
第四次川中島の戦いでは武田信玄と激突。
敵のキツツキ戦法を見破り、一気に突撃し、
武田軍に大ダメージを与える。

織田軍(豊臣秀吉+柴田勝家)との夢の対決では、
 秀吉「柴田さんとは一緒に仕事できません!」
方針の違いから2人がケンカしてしまい、
秀吉が無断で戦線離脱してしまう。(信長激オコ)
織田軍が弱体化し、謙信の圧勝で終わった。

軍神、義の戦い、敵に塩を送るなど尊敬を集める。
突然家出したり、ムカついてに火を放ったり、
極度の酒好き・少年好きだったり、天才だが変態。
合戦の最中でも酒を飲むくらいアル中だった。
過度の男色により妻がおらず、子供ができず、
過度の飲酒により急死し跡継ぎで内乱が起こる。

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アル中ランキング 3位

龍造寺隆信(肥前)

  • 1529年 龍造寺家長男で誕生
    (信長の5歳上)
  • 1545年(16) 祖父・父が謀反の疑いで謀殺
  • 1548年(19) 龍造寺家の家督継承
  • 1553年(24) 城を奪回し肥前に復帰
  • 1570年(41) 今山の戦い⇒大友氏撃退で独立
  • 1578年(49) 勢力拡大し肥前国を平定
     この頃からアル中・色欲・豚化
  • 1579年(50) 耳川の戦いで大友氏が弱体化
  • 1580年(51) 大友から独立⇒快進撃で九州3強
  • 1584年(55) 沖田畷の戦いで討死

「肥前の熊」こと隆信は怪力自慢の若者であった。
父と祖父を謀反の疑いで殺され、
内乱で城を追われた経験から猜疑心が強くなる。
耳川の敗戦で弱体化した大友領で快進撃を始め、
大友・島津と並び、九州3強の一角になる。

しかし、肥前を統一したあたりから
酒と色欲に溺れ、不摂生からデブになっていた。
猜疑心の強さから、疑わしい家臣を次々と殺害し、
人質として差し出された子供たちまで殺害する。
同時期、島津も快進撃で急拡大を続けており、
沖田畷の戦いで激突した。

沖田畷の戦いでは、島津軍0.6万に対し
龍造寺軍2.5万が湿地を挟んで対峙した。
島津軍の後退を始めると一気に大軍で襲い掛かる。
しかし湿地で足がとられる中、
鉄砲の一斉射撃を喰らい大混乱に陥った。
実は「釣り野伏」という島津得意の囮作戦であり、
まんまと大軍を湿地に誘導されてしまった……
狂戦士島津軍に三方向から一斉突撃され、
隆信はあっけなく首を取られた。

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ツイてないランキング 【優勝】

今川義元

  • 1519年 今川家正室の3男で誕生
    (信長の15歳上)
  • 1523年(5) 家督争い回避で寺で僧に
      5~16歳 京で最先端教育を受ける
  • 1536年(17) 長男次男不審死
       同年 異母兄と家督争い⇒勝利(15万石)
  • 1537年(18) 武田と同盟⇒北条と険悪に
  • 1542年(23) 三河の奪い合いで信長の父に敗退
  • 1547年(29) 家康を人質に要求
  • 1548年(29) 三河の奪い合いで信長の父に勝利
  • 1554年(36) 甲相駿三国同盟を結成
  • 1555年(37) 信玄と謙信を和睦させる
  • 1558年(40) 家督を息子に譲り尾張侵攻に専念
  • 1560年(42) 桶狭間の戦いで討死

自力で僧⇒大大名に

もともと跡継ぎ候補でなかったので
僧として一生を過ごす予定だった。
京都で最先端の教育を受け、駿河に戻ると、
長男次男が2人とも同じ日に急死wし、
残った異母兄との戦を制し、晴れて今川当主に。

桶狭間の戦いでは、
信長27歳、秀吉24歳、義元42歳、家康19歳。
織田軍数千に対し、数万の兵で尾張に侵攻開始。
その兵力差は10倍であった。
勝ったも同然状態になってから
前線に兵を送り、本隊に5000残した。
信長は2000の兵を率いて桶狭間に突撃した。
実は、今川本隊の場所を把握しておらず、
攻めた場所に、たまたま義元の本隊がいた。
信長の歴史的勝利は、単なる偶然だった。
本当に、ツイてない……

白塗り歯黒マロ眉、公家カブレのデブで
馬に乗れば股ズレ……完全なバカ殿扱いである。
しかし、堺のような自治体制を導入し、
革新的な商業政策で莫大な富を得た。
甲相駿三国同盟を駆使して今川家勢力を拡大し、
武田・北条・上杉と並ぶ勢力にまで成長させ、
「街道一の弓取り」とまで呼ばれる。
政治家としては有能、武将としては普通であり、
決して無能ではない。

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ツイてないランキング 2位

豊臣秀次

  • 1568年 秀吉の姉の長男として誕生
  • (信長の34歳下)
  • 1572年(4) 宮部家の養子(人質)
  • 1582年(15) 本能寺の変⇒2万石の大名に
  • 1584年(17) 長久手戦で総大将⇒大敗
  • 1585年(18) 雑賀征伐で副将⇒勝利
  • 1590年(23) 小田原征伐で副将⇒100万石
  • 1591年(24) 1/22秀吉弟⇒8/5秀吉長男が死亡
      秀吉の跡継ぎ候補+関白になる
  • 1593年(26) 運命の子「秀頼」誕生⇒用無しに
  • 1595年(28) 謀反の疑いをかけられる
       同年 7/15切腹
       同年 8/2子供4、側室ら39名斬首

次期天下人が生首に

Cited from “https://www.youtube.com/watch?v=jylVN9eAAUQ”.

牛車のなかには死装束をまとう女性たちと、
何も知らず無邪気な子供たち。
幼い我が子に白い装束を着せた時の気持ちは
いかほどであったことだろう……

Cited from “https://www.youtube.com/watch?v=jylVN9eAAUQ”.

まず刑場で見たのは、秀次の首。
最初に長男(6)が槍で二度刺され、
母は血まみれの我が子を泣き崩れながら抱いた。
続いて母親たちにしがみつくも引き離され、
残る子供たちが次々と槍で刺された。

Cited from “https://www.youtube.com/watch?v=jylVN9eAAUQ”.

大人たちは念仏を唱えながら、自分の番を待つ……
駒姫は11番目であった)
鴨川は戦場のように真っ赤に染まった。
処刑された39名は大穴に次々と放り込まれ、
土を盛られて「畜生塚」と名づけられた。
(遺体を引き取って弔うことすら、許されず)

秀次事件の真相は謎

切腹には「名誉死」「死刑」の2種類があり、
「名誉死⇒死刑」に変換するためだった……
と予想する。

  1. どうしても秀頼を跡継ぎにしたい
  2. 秀次に謀反の疑いをかけ後継ぎから外す
  3. 秀次が弁明に訪れるも、秀吉が応じない
  4. 秀次が潔白を証明する想定外の切腹!
    (関白の切腹という前代未聞の大事件)
  5. 本当に謀反だった、ことにするため一族死刑

秀次は無実を証明するために、
究極の手段として、自ら「名誉の切腹」をした。
しかし秀次に正当性があれば、
関白を殺したのは秀吉、になってしまう。
秀吉に正当性を持たせるには、
切腹が命令による死刑でないといけない。
本当に謀反を計画していたことにして
秀次は死罪だった形にするため家族も連座させ、
謀反としての体裁を整えた、のではなかろうか。

とはいえ、それにしては「やり過ぎ」である。
もはや理屈で語れないキチガイ行為であり、
秀吉のボケや気狂い、無断切腹へのブチ切れなど、
いろんなことが同時に重なっての惨劇だろう。
本能寺の変と同様、日本史上最大級の謎である。
これで豊臣政権が崩壊して歴史が変わった。

家康「秀次がいたら天下は狙わなかった」

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ツイてないランキング 3位

大友義統

  • 1558年 大友宗麟の跡継ぎで誕生
  • (信長の24歳下)
  • 1576年(18) 宗麟が隠居し家督相続
  • 1578年(20) 宗麟が「キリシタン王国」建国へ
       同年 耳川の戦いで大敗し中止
  • 1586年(28) 島津の豊後侵攻で滅亡の危機
  • 1587年(29) 秀吉の援軍で島津撃退(37万石)
       同年 大友宗麟が死去
  • 1592年(34) 朝鮮出兵① 誤報で誤撤退
       秀吉が激怒⇒幽閉(0万石)
  • 1598年(40) 秀吉死去で幽閉解除
  • 1600年(42) 関ヶ原西軍⇒九州で官兵衛に敗退
       家康が嫌悪⇒また幽閉
  • 1610年(52) 茨城に流罪の後、死去

秀吉・家康からW幽閉

父:宗麟が散々やらかしてから、
弱体化した後の国を丸投げされる。
父はキリシタン王国「ムシカ」建国のため、
島津家の領地に攻め込んでしまうが、
大敗して家臣の謀反や逃走が続出した。
秀吉の九州征伐で役立たず判定され、
九州No.1勢力圏6ヶ国がたったの37万石に(泣)

朝鮮出兵(34)では小西行長が包囲されると、
秀吉から救援の指示が出たものの、
「小西討ち死」の報告を受け救援を中止し撤退。
しかし、これは誤報で小西は生きていた……
秀吉「仲間を見捨てて逃げるとは、何事か!!!!!!!」
超絶大激怒されて領地没収の後、幽閉される。

秀吉が死ぬと、解放されて豊臣家に復活した。
関ケ原の戦い(42)では家臣団の誘いを押し切って
家康の誘いをシカトし、西軍所属してしまう。
開戦後は九州で黒田官兵衛にボコボコにされ、
東軍に降伏するも家康に嫌われ、また幽閉生活。
そのまま人生を終える。
かつて九州を二分する勢力だったのに……

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イケメンランキング 【優勝】

陶晴賢(長門)

Cited from “信長の野望 戦国立志伝”.
  • 1521年 陶家の2男で誕生
  • (信長の13歳上)
  • 1539年(19) 父の死で家督相続
  • 1542年(22) 愛人:大内義隆が尼子に大敗
       大内義隆がヘタレ化
  • 1551年(30) 下剋上して大内父子殺害
  • 1553年(32) 大内氏義兄弟と対立
       毛利元就、援軍を出さず
  • 1554年(33) 毛利が陶と断交宣言
  • 1555年(34) 厳島の戦いで自害

愛人から下剋上して当主に

美少年大好き無能主君:大内義隆に寵愛を受ける。
義隆は晴賢に会うために5時間馬を飛ばし、
昼寝中は起こさずに手紙を置いて帰ってくるほど。

主君:義隆は尼子に大敗すると、戦意喪失。
公家カブレの豪遊で増税し、領民が苦しむ。
ブチキレた晴賢は挙兵し、自害に追い込んだ。
晴賢は非常にキレやすい性格をしていた。

続いて毛利元就(56)と対立する。
3万の大軍を率いて毛利を攻めるものの、
大軍を生かせない厳島に誘導されてしまう。
山の上から毛利勢0.5万の奇襲を受け、
陶軍は狭い場所で大混乱に陥る。
村上水軍によって退路閉鎖され総崩れとなり、
陶晴賢(34)はあっけなく自害に追い込まれた。

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イケメンランキング 2位

前田利家

  • 1537年 尾張の農村で誕生
    (信長の3歳下)
  • 1552年(12) 信長の小姓となる
  • 1556年(16) 赤母衣衆(超エリート部隊)に抜擢
  • 1558年(22) 「まつ」と結婚
  • 1559年(23) 信長家臣を叩き切り追放
  • 1561年(25) 桶狭間などで活躍⇒復帰
  • 1569年(33) 前田家を継ぎ城主となる
  • 1575年(39) 成政らと10万石を3人統治
  • 1581年(45) 能登国主(23万石)
  • 1582年(46) 本能寺の変
  • 1583年(47) 賤ヶ岳(柴田勢)を離脱
  • 1585年(49) 佐々成政に勝利(加賀100万石
  • 1598年(62) 秀吉死去・豊臣五大老に
  • 1599年(62) 死去(翌年に関ヶ原の戦い)

槍と算術の達人

Cited from “Maeda Toshiie Statue 03-0“.

信長が驚くほどの命知らずであり、
前田又左衛門利家「槍の又左」と呼ばれていた。
ブチ切れた利家(23)は、信長お気に入りの家臣を
目の前で叩き斬り、切腹を命じられるものの
柴田勝家が必死に庇ってくれたので追放で済む。
その後桶狭間の戦いなどに個人的に参戦し、
何度か首を持って信長を訪れて復帰を許された。

「カネがなければ世間は恐ろしい」
浪人時代にはカネでものすごく苦労したので、
伝来したばかりのソロバンを使いこなした。
「カネさえあれば、怖いものなし」
税の取り立てや無駄使いには厳しく、
商売や融資、資産運用が巧い算術の達人だった。

賤ヶ岳の戦い(47)では、
若いころから可愛がってくれた柴田勝家と
同期のマブダチ秀吉と、どちらにつくかで悩む。
結局は秀吉について豊臣五大老になるが、
関ヶ原の戦い前年に死去した。
もし利家がいたら、西軍は勝てたかもしれない。

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イケメンランキング 3位

直江兼続

Cited from “https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Noae_Kanetugu_Yoroi.jpg”.
  • 1560年 越後で誕生
    (信長の26歳下)
  • 1574年(14) 上杉謙信の城へ⇒寵愛
  • 1579年(19) 上杉謙信が急死
  • 1581年(21) 直江家を継ぐ
  • 1584年(24) 内政・外交を全て任される
  • 1596年(36) 上杉家が越後80⇒会津120万石
  • 1598年(38) 米沢6万石の大名に
  • 1600年(40) 直江状を家康に叩きつける
       同年 関ヶ原の戦いで西軍派に
     (上杉家は東北で伊達・最上軍と激戦)
  • 1620年(60) 病没

「愛」の人

14歳で上杉謙信の城に仕えると、
謙信「手元に置きたい////」
美少年だったので特別扱いを受け、
その後の大出世のきっかけとなる。

Cited from “https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/164342”.

秀吉には恭順し、上洛で前田慶次と出会う。
秀吉が死去すると、
家康が五大老で抜きんでて上洛を要請してきた。
景勝が上洛要請シカトすると……
家康から「謀反の疑いがある」と言われた。
利家亡き後の前田家を陥れるのと、
まったく同じ手法に、兼続がブチ切れた。
そして、イヤミたっぷりなブチギレ表現
「直江状(直訳:フザケんな)」を家康に叩きつけた。
この態度に、家康は激怒(のフリ?)した。

関ヶ原では西軍につき、敗退。
なんとか上杉家の存続は許されたが、
上杉家全体で会津120⇒米沢18万石に減転封。
その後は景勝・慶次と共に静かに暮らす。

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美女ランキング 【優勝】

淀殿(茶々)

  • 1567年 浅井長政・お市のもとで誕生
    (信長の33歳下)
  • 1573年(7) 信長に攻められ父が自刃
       同年 兄が串刺しの刑
  • 1582年(16) 本能寺の変
       同年 母:お市と柴田勝家が再婚
  • 1583年(17) 賤ヶ岳の戦い⇒母が自刃
  • 1588年(22) 秀吉の側室になる
  • 1589年(23) 秀吉(?)と間に鶴松を出産
  • 1591年(25) 鶴松が死亡
  • 1593年(27) 秀吉(?)と間に秀頼を出産
  • 1598年(32) 秀吉が死亡
  • 1600年(34) 秀頼が関ヶ原傍観で大幅減封
  • 1614年(49) 大阪冬の陣
  • 1615年(50) 大坂夏の陣⇒秀頼と自分が自刃

托卵美女

Cited from “Statue of Azai Sisters“.

浅井三姉妹の長女であり、秀吉の側室となる。
2回妊娠するが、秀吉は無精子症のはず……
最初の子はすぐ死んで、2人目が秀頼である。
関ヶ原の戦い(34)では息子可愛さで
保身に走ったため、秀頼の西軍総大将の話を
シカトし続け、西軍は人が集まらずに敗北した。

その後は家康から幾度も難癖をつけられて
大阪の陣に至り、秀頼と共に自害する。
信長に父を殺され、兄を串刺しにされ、
秀吉に母を殺され、家康に息子と自分を殺された。

後世では家康側からの評判が残り、
日本三大悪女の1人として広まってしまった。
石田三成や茶々が「良い人」では、
家康の行いに正当性を欠いてしまう……
歴史は勝者に都合よく書き換えられるのだ。
ちなみに長身一家出身であり、パパ長政180cm、
ママお市165cm、茶々168cmとされる。
(当時の男性平均が158cm)

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美女ランキング 2位

お市の方

  • 1547年? 信長の妹で誕生?
    (信長の13歳下)
  • 1567年(20) 浅井長政に嫁ぐ
  • 1570年(23) 織田・浅井が断絶
      浅井三姉妹(茶々含む)を出産
  • 1573年(26) 夫が自刃⇒三姉妹と逃れる
     9年間、信長の手厚い保護を受ける
  • 1582年(35) 本能寺の変⇒柴田勝家に嫁ぐ
  • 1583年(36) 賤ヶ岳敗戦⇒勝家と共に自刃

2度の地獄絵図

信長の妹にして、淀殿(茶々)の母である。
政略結婚により長政と結婚するものの、
信長が朝倉を攻めはじめた。
長政(25)は朝倉家との長い縁を優先し、
信長(36)を裏切った。
これで両家は断絶し、兄と夫が対立してしまった。

ブチ切れた信長が討伐に来て、浅井軍は壊滅。
落城の地獄絵図の中、長政は降伏せずに自刃。
信長の意志でお市(26)と浅井三姉妹は逃された。

そして本能寺の変の後、勝家と結婚した。
勝家は賤ヶ岳の戦いを起こしたものの、
秀吉に大敗してしまう。
またも落城の地獄絵図の中、
三姉妹は逃し、自分は勝家と共に自刃した。
逃げればいいのに……と思うが、
秀吉もお市を欲しがっていたらしいので、
「死んでもイヤ」だったということか。

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美女ランキング 3位

細川ガラシャ

  • 1563年 明智光秀の3女として誕生
    (信長の29歳下)
  • 1578年(15) 細川忠興に嫁ぐ
  • 1582年(19) 本能寺の変
    幽閉生活でキリスト教を信仰
  • 1587年(24) バテレン追放令
       同年 洗礼名「ガラシャ」
  • 1600年(37) 夫が家康と上杉討伐へ
       同年 人質を拒否⇒介錯+爆発

メンヘラ美女

あの明智光秀の娘「明智玉子」。
日本一気が短い男「細川忠興」に嫁ぐも、
子宝にも恵まれ幸せな新婚生活であった。
そんな平穏な日々は、パパが突然ブチ壊した。
「本能寺の変」である。
玉子は「謀反人の娘」になってしまった。
もはや秀吉に殺されかねない立場になったので、
山奥のド田舎に避難することになる。
侍女にキリシタンがおり、玉子にも信仰心が芽生える。

2年後に幽閉を解かれ、夫のもとに帰ると、
なんと側室たちがいた!
しかも幼い2人の子供は自分を忘れていた……
もう、何も信じられない……精神状態悪化。

秀吉が死ぬと、夫は家康側について不在がちに。
三成が自分を人質にするため、兵を出してきた。
人質になることを禁止されていたため、
夫の事前命令通り、家老に胸を突かせて死んだ。
(ガラシャのキリスト教は自殺禁止だった)
遺体を残さぬよう爆薬を使う壮絶な最期だった。

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悲劇の姫ランキング 【優勝】

駒姫

  • 1581年 最上義光の3女として誕生
    (信長の47歳下)
  • 1591年(10) 豊臣秀次が関白に就任
    「駒姫を差し出せ」と何度も迫る
  • 1595年(15) 出羽⇒京に到着⇒秀次事件
       同年 7/15 秀次が切腹
       同年 8/2 斬首⇒畜生塚

悲劇の女性絶対エース「駒姫」の前では、
上記3名(茶々・市・ガラシャ)すら恵まれた人生だ。
コレがあるから、秀吉は好きになれない。

あの日

東国一の美少女の噂を聞いた秀次がしつこいので、
「15歳になったら……」と仕方なく承諾する。
15歳になってしまい、仕方なく上京させた。

義光「近くの大名に嫁がせたかった( т৹т )」
お母さん「あぁ……行ってしまうのね……(TдT)」
「大丈夫!駒は立派な側室になります(^□^)」
           到着⇒斬首⇒畜生塚

到着直後に「秀次事件」が起こってしまい、
秀次に会ったこともないのに、縁座させられる。
同情した茶々が「あまりに不憫」と秀吉を説得し、
速馬を送るも、処刑場まであと100mで間に合わず……
遺体の引き取りも許されず、掘った穴に放り込まれ
埋めた後には「畜生塚」と記された。
これを知った駒姫の母は二週間後に自殺し、
義光は長い間、食事も喉を通らなかったという。

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悲劇の姫ランキング 2位

鶴姫(築山殿)

  • 1542年? 今川義元の妹と重臣の間に誕生
    (信長の8歳下)
  • 1557年(15) 徳川家康の正室となる
  • 1559年(17) 跡継ぎ:信康を産む
  • 1560年(18) 桶狭間の戦いで義元討死
  •    同年 家康が三河に無断離反
    氏真激怒⇒人質13人串刺し・父母自害
  • 1562年(20) 家康が織田と同盟しちゃう
  •    同年 岡崎の寺に軟禁
  • 1567年(25) 信康(9)と信長娘:徳姫(9)が結婚
  • 1570年(28) 信康が岡崎城主に⇒城に入れる
  • 1579年(37) 5/2浜松で秀忠(二代将軍)が誕生
  •    同年 徳姫が信長に12ヶ条の罪状
  •    同年 8/29築山殿が暗殺
  •    同年 9/15信康が切腹

信康・築山殿事件

名門家の色白絶世美女と田舎武士の家康が結婚も、
桶狭間の戦いで義元が突然殺され、
平穏な日々がブチ壊されてしまった。
家康は岡崎城に帰り、無断で独立したため
今川氏真(義元の跡継ぎ)は激怒⇒13人串刺し。
家康はこの鬼畜所業に激怒し、今川と断交する。
(これで鶴姫は家康にとって正室でなくなったか)

岡崎に移るも、城でなく寺に軟禁され、
この建物の地名から「築山殿」と呼ばれるように。
浜松で秀忠(跡継ぎ)が爆誕⇒2人は用無し。
対武田の最前線で武功を多く挙げた浜松城組に
後方支援で地味だった岡崎城組が、不満を抱く。

そんな岡崎組に武田信玄が調略を仕掛けてくる。
そして証拠もないのに2人を武田内通の罪として
築山殿(37)は暗殺、信康(21)は切腹……
全部2人のせいにして、徳川家は結束した。
(2人の殺害理由はハッキリせず、諸説あり)

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悲劇の姫ランキング 3位

松姫

  • 1561年 武田信玄の5女として誕生
    (信長の27歳下)
  • 1567年(7) 信長の長男:信忠(11)と政略結婚
  • 1572年(12) 三方ヶ原の戦いで婚約破棄
  • 1573年(13) 信玄が急死
  • 1582年(22) 甲州征伐で信忠に攻められる
       同年 武田家滅亡⇒信忠から呼ばれる
       同年 本能寺の変⇒信忠自刃⇒出家
  • 1616年(56) 死去

ジュリエット

織田は西に、武田は北に脅威があり、
お互いそちらに集中したい。
そこで同盟強化のため、政略結婚がなされた。
7歳で織田信長の跡継ぎ:信忠(ロミオ11歳)と婚約。
2人はずっと文通で淡い恋を続けた(*・ ・*)
ところが5年後に織田信長が武田信玄と対立し、
婚約解消となってしまった(´;д;`)

でも想いは変わらず、縁談を断り続ける(*’-‘*)
婚約破棄から1年後に信玄が病死すると、
織田軍が武田軍を次々に撃破していく。
何も知らない信忠の軍に攻められて
山梨のド田舎まで追われるハメに(0д0)
その後、ロミオ信忠(26)が自分の存命を知ると、
使者が来て、正室にするため招かれたo(^∇^)o

ところが!!(゜ロ゜)
京に向かう道中に「本能寺の変」が勃発し、
信長の後に攻め込まれ、ロミオが自害してしまう。
幸せの絶頂から絶望で引き返すハメに……(。´Д⊂)
天下人の正室になるはずが、
光秀のせいで尼になってしまった。
その後は出家して静かに暮らし、死去。

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バカ殿ランキング 【優勝】

松倉勝家

  • 1597年 松倉家跡取りとして誕生
    (信長の53歳下)
  • 1618年(21) 父(小大名)が見栄で城を着工
      城の建設費etc.で課税強化
  • 1625年(28) 大大名レベルの城完成
       同年 キリシタン弾圧を強化
  • 1630年(33) 家督を継ぐ
      キリシタン弾圧・重税をさらに強化
  • 1637年(40) 島原の乱
  • 1638年(41) 領地没収⇒斬首

本物のバカ

Cited from “https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Shimabara_Castle_Tower_20090906.jpg”.

4万石の国力を見栄を張って10万石と計算し、
税率80%を超える「超」重税を課した。
諸国大名へのコンプレックスから、
小大名なのに大大名クラスの城を建て、
凶作でも飢饉でも容赦なく年貢を取り立てた。
キリスト教への弾圧もキチガイレベルである。

  • キリスト教信者
  • 税金を納められない者

両者とも藁を巻かれて生きたまま焼かれ、
勝家はその様子を「藁踊り」と喜んで見物した。
ある庄屋が、飢饉により税を納められなくなると、
身重の妻は裸にされ極寒の水牢に入れられた。
水中で出産し6日間苦しんだ末、子と共に死んだ。
20年以上に渡って溜りに溜まった領民の怒りは、
ついに大爆発して代官所を襲撃し、殺害した。

ついに天草四郎(16)を総大将とした一揆軍3.7万が
「島原の乱」を勃発させた。
一揆軍は幕府軍12万に鎮圧されるものの、
失政でなく犯罪とされ切腹を認められず、斬首。
江戸時代を通じて切腹が認めれずに
処刑された大名は、コイツだけである。

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バカ殿ランキング 2位

織田ノブオ

  • 1558年 信長の2男として誕生
    (信長の24歳下)
  • 1569年(11) 名門:北畠氏の養子となる
  • 1579年(21) 信長に無断で伊賀征伐⇒大敗
      信長激怒「親子の縁を切るぞコラ!」
  • 1582年(24) 本能寺の変⇒清州会議で100万石
       同年 安土城を燃やす(?)
  • 1583年(25) 賤ヶ岳の戦いで秀吉側へ
       同年 3男信孝を切腹させる
  • 1584年(26) 秀吉と対立⇒家康と組む
       同年 家康に無断で長久手戦を和睦
  • 1590年(32) 三河・遠江への転封拒否で領地没収
  • 1592年(34) 家康の仲介で許され2万石
  • 1600年(42) 関ヶ原の戦い傍観で領地没収
  • 1614年(56) 大坂冬の陣豊臣側⇒直前で逃亡
  • 1615年(57) 逃げた功績で5万石
       同年 隠居して悠々自適に過ごす
  • 1630年(73) 死去

織田家を崩壊させた張本人

本能寺の変後に秀吉に持ち上げられ、
まんまと3男信孝と対立させられてしまい、
切腹の指示まで出してしまう。
調略で内部崩壊させる秀吉得意の戦法である。
これで織田家が解体・弱体化すると同時に、
秀吉の勢力が拡大しすぎてしまった……

今度は秀吉が手に負えなくなり、
家康に泣きついて小牧・長久手の戦いを起こす。
家康の戦術であと一歩で勝利……だったのに、
家康に無断で勝手に秀吉に降参してしまう。
(これで織田家が秀吉の配下になってしまった)
秀吉から三河・遠江に転封の指示が来るも、
なんと「拒否」して領地没収される。
……が、家康が仲介してくれて復帰を果たす。
にもかかわらず、
関ヶ原の戦いでは、東軍につかずに傍観する。
家康「ノブオ何もせんかったよな、クビ」
また領地没収される。

大坂の陣では豊臣側から総大将に任命されるが、
なんと開戦直前に逃亡してしまう。
おかげで豊臣勢は開戦前に総崩れした。
そして、なんと……
逃げた功績で大名に復帰させてもらう。
その後は平穏に暮らし、長生きした。
信長子孫で一番のダメ男が一番の成功者となった。

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バカ殿ランキング 3位

佐々成政

  • 1536年 土豪の3男として誕生
    (信長の2歳下、秀吉の1歳上)
  • 1560年(24) 家督を継ぐ
  • 1567年(31) 黒母衣衆(超エリート)に抜擢
  • 1575年(39) 利家らと10万石を3人統治
  • 1578年(42) 上杉謙信急死⇒織田が北陸制覇
  • 1582年(46) 越中10万石領主に(人生のピーク)
       同年 本能寺の変
  • 1583年(47) 賤ヶ岳戦で勝家側に⇒降伏
  • 1584年(48) 長久手戦で家康側に⇒ノブオ降参
       同年 冬期北アルプス縦断で家康を説得
  • 1585年(49) 秀吉軍10万に降伏⇒0.1万石
  • 1587年(51) 九州征伐で武功⇒肥後20万石
       同年 空気読まず重税⇒一揆⇒切腹

そんなに秀吉が嫌いなのか

小牧・長久手の戦いでは徳川家康につく。
もう少しでサルを撃退できたのに……
ノブオが勝手に和睦してしまう(゚◇゚)ガチョーン
でも秀吉に恭順するのは絶対イヤ。
そこで冬期北アルプストレッキングを経て、
浜松城で家康に打倒秀吉を説得⇒断られる。
半数が凍死・滑落死するほどの思いをしたのに……
帰りも同じ道で帰っていった……
反抗的だったので秀吉が10万の兵で攻めてくると
頭を丸めて降伏し、10万石⇒0.1万石に(T_T)

成政は大名としてはバカであるものの、
野戦の指揮官としてはトップクラスである。
信長亡き後、秀吉の急激な領土拡大により、
極度の家臣不足だったので大抜擢された(●´Д`●)
九州征伐で島津の降伏交渉に成功し、
肥後国を拝領し0.1万石⇒20万石に\(^▽^)/

秀吉「独立心の強い地域ゆえ、急な改革をするな」
ところが九州独自のドンブリ勘定をやめて
本州のようにキッチリ検知して計算してしまう。
「年貢が今までの倍以上になったばい!」
「このバカをどげんかせんといかん!」
自力で制御不能な一揆を起こされてしまい、
諸大名が出動して沈静化するハメに……
さすがに擁護不可能となり、切腹(゚Д゚;)
愛すべきバカ、憎めないバカ、といった印象。

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ネタキャラランキング 【優勝】

松永久秀

  • 1510年? 摂津の土豪のもと誕生
    (信長の24歳上?)
  • 1533年(23) 三好長慶の秘書
  • 1552年(42) 三好家の一切を任される
  • 1559年(50) 大和国を居城にする
  • 1564年(55) 三好長慶死去⇒三人衆と協力
  • 1565年(56) 足利義輝が暗殺(黒幕?)
       同年 三好三人衆と対立
  • 1567年(58) 東大寺大仏殿が消失
  • 1568年(59) 信長(34)の家臣となる 
  • 1571年(64) 信長を裏切る
  • 1573年(64) 信長に降伏
  • 1577年(68) 謎の戦線離脱⇒自害

ボンバーマン

大仏の首をもいで、信長を二度裏切り、
最期には爆死したトンでもない男、
と伝えられているが……
若くして三好長慶の秘書となるので、
それなりの教育を受けて育ったと思われる。
また公家・寺院との仲介役を任されており、
礼儀作法も申し分なかった証拠である。

最初の天下人である三好長慶の娘を貰い、
大和国を拝領し、いつの間にか大名になる。
三好長慶の死後、共に支えた三好三人衆と対立。
東大寺で激突し、戦いで大仏殿が燃え、
大仏の首がもげた。

三人衆を駆除するため信長と組むものの、
退けた後は武田信玄と内通して信長を裏切る。
直後に信玄が急死してしまい、
信長に降伏するが、殺されずに済む。
1577年(68)の石山合戦中に謎の戦線離脱……
「??何か問題あるなら対応するけど?」
信長から呼びかけるも、城に引きこもったまま、
名茶器「平蜘蛛」に火薬を詰め込んで、
共に爆死するという意味不明な最期を遂げる。
自死の方法は諸説あるが、
彼はボンバーマンでないとキャラが立たない。

三好三人衆とは?

松永久秀と共に三好長慶を支えたものの、
長慶の死後には久秀と権力争いで対立した。
当時の堺は自治都市として全国一栄えており、
そこを掌握していたので勢力が強かった。
その後、信長+久秀と何度も争って駆逐される。

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ネタキャラランキング 2位

薄田兼相(ススキダ カネスケ)

  • 秀吉の馬廻衆(エリート)として5000石

     【大阪の陣】
  • 1614年 冬の陣11/29 
      遊郭宿泊中に砦が陥落しちゃう
  • 1615年 大阪夏の陣5/6 
      後藤又兵衛の援軍で8時間遅刻
      伊達正宗軍に奮戦し討死

下半身で失敗⇒上半身で挽回

大坂一の怪力とも呼ばれ、相撲では負けなし、
数人かかりでも倒せない豪傑であった。
秀吉の馬廻衆から、死後は遺児の秀頼に仕えた。
大阪冬の陣では、浪人衆のまとめ役として
最大の砦「博労淵砦」の守将に抜擢された。

兼相は兵700を率い、砦の守備を命じられていたが
夜明けに幕府軍が砦に奇襲をかけると……
兼相はなんと不在(遊郭でプレイ中)であった。
指揮官不在により、最大の砦はアッサリ陥落する。
これで豊臣軍は大阪城に撤収するハメになり、
「橙武者(見かけ倒し)」のアダ名がつく。

大坂夏の陣では後藤又兵衛の援軍として
道明寺の戦いに参戦するも、濃霧で8時間遅刻。
又兵衛は孤立して、到着前に討死してしまった……
残った30の兵で伊達正宗の軍に奮戦し、
一時は江戸幕府軍を押し返す勢いだった。
長刀が折れると槍、槍が折れると刀と、
次々を敵を倒すも、馬を槍で刺され落馬する。
その後3人かかりで足を切り落とされ、
首を取られるという、壮絶な最期であった。

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ネタキャラランキング 3位

石川五右衛門

  • 1594年8/24 釜茹での刑

後世で多数の創作ネタに

出生や幼少期は不明とされるものの、
伊賀忍者の抜け忍(無断で辞めた)であり、
家屋に忍び込むのは得意だった。
朝鮮出兵で京都の警備が手薄になると、
貴族や豪商など権力者だけから盗み、
貧乏人に分け与え、庶民のヒーローとなる。
(この美談は創作の可能性あり)

盗賊団を結成し、大規模に盗むようになると、
ついに秀吉から捕縛命令が発せられた。
窃盗のほか、強盗や殺人を何度もやっており、
捕まれば死罪は確実であった。
五右衛門は息子と共に、釜茹での刑となる。
(茹でる、というより植物油で揚げられた)

盗賊仲間も同じ刑に処せられ、親族は磔となる。
合計で20人ほどが処刑されたらしい。
あまりの残酷さに宣教師が驚いた記録があり、
同じような記録も複数あり、実話であろう。
そして翌年は、同じ場所(京都三条河原)
秀次事件による39人の凄惨な処刑が実行される……

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珍キャラランキング 【優勝】

大友宗麟

  • 1530年 大友家跡取りで誕生
    (信長の4歳年上)
  • 1554年(25) なんちゃってキリシタン大名に
  • 1555年(26) 毛利元就と対立
  • 1560年(31) 九州最大勢力6ヶ国制覇
  • 1562年(33) 毛利元就に大敗⇒出家
     この間、毛利・竜造寺と一進一退
  • 1576年(47) 隠居⇒キリシタン王国ムシカ構想
  • 1578年(49) 耳川の戦い⇒島津に大敗
  • 1579年(50) 本物のキリシタンになる
     洗礼名「ドン・フランシスコ」
  • 1584年(55) 沖田畷戦⇒島津が急拡大
  • 1586年(57) 秀吉に泣きつく
  • 1587年(58) チフスで病没

キリシタン王国「ムシカ」失敗

フランシスコ・ザビエルと面会し、南蛮貿易と
鉄砲弾薬目当てのなんちゃってキリシタン大名になる。
秀吉以上の女狂いであり、気に入った女は
親戚や家臣の妻でも手を出す。
(家臣に罪を着せて殺し、妻を手に入れたことも)
南蛮貿易によるボロ儲けや武器弾薬、
立花宗茂など有能な家臣団の力で6ヶ国を制覇し、
九州最大勢力170万石となる。

「愛に生きるキリシタン王国をつくる」
49歳で日向にて神の国「ムシカ」を作るため出兵。
神社仏閣を破壊しつつ南下、島津の領土に手を出す。
九州の2大勢力である大友・島津が耳川で激突。
島津が奇襲と待ち伏せで猛攻撃してくるも、
宗麟は祈るだけ……ボコボコにされた。

筑後に逃げ帰り、大友家は急激に衰退した。
それでもキリスト教に入れ込む宗麟から
家臣たちが次々に寝返っていく……
宗麟は秀吉に泣きついて援軍を要請する。
島津を追い返してもらい、そこで天に召された。
そのトバッチリは息子の義統が背負うことに(泣)

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珍キャラランキング 2位

弥助

  • 1555年? モザンビークで誕生
    (信長の17歳下)
  •  ?年   アフリカ⇒インド
  • 1579年(24) インド⇒京都
  • 1581年(26) 信長と会い、家臣に
       同年 士分に取り立て
  • 1582年(27) 本能寺の変で奮戦
    本能寺⇒二条城で捕えられ解放

本能寺の変で奮戦した黒人武士

南蛮寺にいる弥助を見ようと野次馬が殺到し、
寺が破壊されるほどの大騒ぎだった。
身長182cm(当時の平均158cm)の大男で、
真っ黒な肌に大きな目、10人分の剛力……
新し物好きの信長は一目見て弥助を気に入り、
付き人(道具持ち・ボデーガード)として迎える。

まず、肌についている墨を落とすことにしたが、
洗っても洗っても墨は落ちない……
その後は共に食事をする数少ない家臣として、
信長から家族のように大切にされる。
(外国人なので心の底から気を許せたのだろう)
また仕官後すぐに武士として通用しているので
もともとアフリカ部族の戦士だった可能性が高い。

その1年後に本能寺の変。
信長の回りには森蘭丸・弥助など、十数名のみ。
信長が自刃すると、弥助は本能寺を抜け出して、
二条城に向かい、信忠(長男)に知らせた。
臆することなく長時間共に奮戦し、捕えられる。
光秀「日本人でないから、殺さずともよい」
南蛮時に帰されてからは、詳細は不明である。

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珍キャラランキング 3位

信濃の歩き巫女

  • 人々の悩みを聞く⇒お祓い・祈祷・占い
       カウンセラー・話相手になり女性に人気
  • 大道芸人を兼ねる歩き巫女:子供に人気
  • 遊女を兼ねる歩き巫女:オジサンに人気

       ★武田信玄が「くの一」結成
            ⇒おチンチン作戦

巫女+忍者=くの一

「歩き巫女」とは特定の神社に仕えず、
フリーで生計を立てるため、全国を歩き回る。
聖(性)職者のため、国を自由に行き来でき、
お祓いでどの家にも、男が入れない場所も入れる。
すぐに余所の土地に旅立っていくので
秘密の話や誰にも言えない悩みを話せる相手。

地獄のような戦国の乱世で、妻は悩みを癒やされ、
娘や息子を楽しませ、夫のムスコも楽しませる……
みんな歩き巫女が来るのを、心待ちにしていた。
情報収集にはうってつけの存在であり、
そこに信玄が目をつけた。

戦国時代には孤児や捨て子が大量に発生した。
そんな少女を集め、ルックスの良いコを選び、
「歩き巫女+忍者」として育成し「くの一」結成。
男のたらし込みや巫女の業、情報収集を仕込んだ。
信濃にバラまいて地元有力者や武将に接近させる。
寝床に入れば話も聞けるし、寝首もかける。
ブサイクなコは女中として放り込むあたりが、
適所適材にこだわる信玄らしい。

それでは、ランキングで
紹介しきれなかった人物を紹介していく。

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顕如

  • 1543年 本願寺の跡継ぎとして誕生
  • (信長の9歳下)
  • 1554年(10) 本願寺宗主となる
  • 1568年(24) 信長+将軍義昭が上洛
  • 1570年(26) 挙兵①⇒石山合戦開始
  • 1573年(29) 信長が将軍義昭を追放
  • 1574年(30) 長島一向一揆 vs 信長軍8万
     兵糧攻め+信徒2万人を城ごと燃やされる
  • 1575年(31) 信長と和睦①
  • 1576年(32) 挙兵②⇒村上水軍で信長撃退
  • 1578年(34) 信長が鉄甲船で猛反撃
  • 1580年(36) 朝廷の仲介で信長と和睦②
    本願寺を信長に渡す⇒直後に放火・焼失
     ⇒信長、宗教に懲りて激怒せず
  • 1592年(49) 死去

宗教は怖い

石山本願寺は攻めにくく、守りやすく、
交易しやすく、大坂で最高の場所にあった。
(後に大阪城の建設地になるほど)
顕如は浄土真宗総本山の石山本願寺の
宗主であり「坊主将軍」と呼ばれた。
南無阿弥陀仏、と唱えるだけで極楽浄土に行ける。
簡潔さで困窮した農民から圧倒的支持を集めた。
(いつ死ぬかわからない雑賀衆からも支持された)
日本の人口1600万人のうち、800万が信徒であり、
全盛期の信長が10年かけても滅しきれなかった。

将軍義昭と上洛した織田信長が、
石山本願寺の場所を奪いに来た。
キレた顕如は三好三人衆と組み、話を盛った。
「信長が本願寺を壊しに来た」
全国の信徒が決起し、石山合戦がスタートした。
「戦って死ねば極楽浄土に行ける( ✧Д✧)」
老若男女が目をキラキラさせて突っ込んでくる。
そんな狂信者集団が全国どこでも、大規模にも、
小規模にも、散発的に次から次へ湧いてくる……
平時は農民だから、見分けもつかない。

1576年(32)、信長に追い出された将軍義昭の
呼びかけに応じ、また挙兵した。
村上水軍が織田軍の船を木端微塵にするも、
2年後には信長が「鉄甲船」を開発してきて、
木端微塵にされ、朝廷を介して和睦した。
百姓や僧ををいくら倒しても、名誉にならず、
新たな領地が手に入るわけでもない……
戦えば戦うだけ損なので、信長も手を引いた。
その後、石山合戦が原因で跡継ぎ問題が発生し、
東本願寺と西本願寺に分裂してしまう。

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最上義光(57万石)

  • 1546年 最上家跡継ぎとして誕生
    (信長の12歳下)
  • 1564年(18) 妹を伊達家へ嫁に出す
  • 1567年(21) 妹が伊達正宗を産む
  • 1574年(28) 伊達家と対立
  • 1588年(42) 大崎の戦い
  • 1590年(44) 小田原討伐に遅刻
  • 1595年(49) 娘:駒姫(15)を豊臣秀次に嫁へ
  • 1600年(54) 長谷堂城の戦いで57万石

あの駒姫のパパ

「もがみよしあき」と読む。
5歳で12歳の体格、16歳で200kgの岩を持つ怪力。
身長は180cm以上と当時としては大男である。
妹を伊達家へ嫁に出すと伊達正宗が産まれるも、
その後に奥州の覇権を争って2人は対立する。
そこで妹がキレて仲介し和睦となった。
「鮭様」と呼ばれほど鮭が好きで、
鮭を食いまくり、周りにも贈りまくった。
(鮭が遡上する理由だけで庄内を欲しがったほど)

Cited from “Mogami Yoshiaki“.

怪力の持ち主で画像だとカッコいいが、
長いモノに巻かれるので「奥州の狐」と呼ばれた。
本人よりも、娘の方が有名である。
豊臣秀次から三女(駒姫)を再三に渡って
側室に懇願され、イヤイヤ承諾する。
……が、秀次事件(49)でトンでもない目に合う。
そのうえ秀次へ嫁を出したことを
秀吉から咎められ、謀反への加担まで疑われた。

長谷堂城の戦い(54)で直江軍を追撃するが、
前田慶次にブロックされて断念。
とはいえ敵対する上杉軍を撃退した武功により、
家康から30⇒57万石に増やしてもらえた。
領民に寛容であり、一揆が起こったことはない。

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真田幸村

  • 1567年 真田家2男として誕生
    (信長の34歳年下)
  • 1575年(9) 信濃・上田城に移る
  • 1582年(16) 武田家滅亡・本能寺の変
      ★仕える先を転々と変える
  • 1585年(19) 上杉家に仕える
  • 1587年(21) 秀吉の人質⇒スカウトされる
  • 1590年(24) 小田原征伐で初陣
  • 1598年(32) 秀吉死去⇒徳川に仕える
  • 1600年(34) 関ヶ原西軍⇒高野山へ流罪
       この間ずっとニート生活
  • 1614年(48) 大坂冬の陣(真田丸)
  • 1615年(49) 大坂夏の陣で討死 

大坂の陣だけの一発屋

Cited from “https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Restructured_Model_of_Sanadamaru_Fort2.jpg”.

後世の軍記モノや小説で脚色され、
「ヒーロー幸村」として知名度が高いものの
創作物語による過大評価の感がある。
「幸村」という名前自体、創作物語の名前であり
「信繁」が本名であるが、幸村で統一する。

大坂冬の陣(48)では南側に出城(真田丸)を築き、
数千で1万以上の徳川勢を撃退する。
(幸村がスゴいというか、攻撃側がショボかった)
幸村は城の外で積極攻勢を主張したが、
ヘタレな豊臣家は籠城策をとってしまう。
ここで前に出ておけば、堀を埋めずにすんだかも。

大坂夏の陣では兵士の士気を高めるため
秀頼出陣を主張したが、却下されてしまい、
決戦の地「天王寺」で華々しく散る選択をした。
伊達正宗の騎馬隊を撃破し、徳川本陣を2度崩し、
家康の馬印も倒し、突撃して家康の首にあと一歩!
秀頼が出陣していればここで討てたかも……
家康が切腹を覚悟するも圧倒的多数に押し戻され、
神社で休憩しているところを討たれる。

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武田勝頼

  • 1546年 信玄の4男として誕生
    (信長の12歳下)
  • 1563年(18) 初陣(30万石)
  • 1567年(22) 義信事件(長男が切腹)
  • 1569年(24) 北条戦で大手柄
  • 1571年(27) 武田家の家督継承
  • 1572年(28) 信玄が信長包囲網に参加
  • 1573年(29) 信玄が急死(70万石)
  • 1574年(30) 東美濃・遠江へ侵攻(80万石)
  • 1575年(31) 長篠の戦いで大敗
  • 1576年(32) 上杉と夢のタッグ計画浮上
    1578年(34) 上杉謙信が急死⇒頓挫
  • 1582年(38) 信長の甲州征伐⇒自害

3度目の正直ならず……

信長包囲網によって武田・朝倉で挟み打ち状態、
あと一歩で信長を……というところで
朝倉義景が雪で朝倉がバックレちゃった。
その後猛追してあと一歩で信長を……という場面で
パパ信玄が急死しちゃった。
(ツイてないランキングに入れるか迷った)

信玄急死後も勢力拡大を続け、
小大名相手に連戦戦勝で調子ノリ助になる。
長篠の戦いでは家臣の撤退要請を聞かずに
決戦を選んでしまった……
自慢の騎馬隊を障害物でブロックされ、
大量の鉄砲隊による一斉射撃で大敗した。

そして将軍義昭が夢の包囲網を立案する。
武田・上杉・北条・毛利・本願寺で囲み
信長を討つ計画に、勝頼も大賛成する。
……が、謙信急死による内乱で頓挫しちゃった。
その後は信長の甲州征伐で大敗し、自害する。
信長を討つ絶好機が3回あったものの、
あと一歩でいつも立場大逆転された。

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服部半蔵(2代目)

  • 1542年 三河で誕生
    (信長の8歳下)
  • 1548年(6) 出家を拒否して失踪
  • 1557年(16) 夜襲の成功で家康喜ぶ
  • 1560年(19) 桶狭間の戦い
  • 1563年(22) 三河一向一揆
  • 1570年(29) 姉川の戦いで手柄
  • 1572年(31) 三方ヶ原の撤退戦で活躍
  • 1575年(34) 家康家臣の娘と結婚
  • 1579年(38) 家康長男:信康の斬首ができず
  • 1582年(41) 本能寺の変伊賀越え
       同年 大名となる
  • 1590年(49) 小田原征伐で奮戦
  • 1597年(55) 病没

服部半蔵は複数いる

この名は服部家の当主が襲名する名なので、
「服部半蔵」は何人もいる。(分身の術ではない)
息子は手裏剣ではなく槍の名手であり、
忍びの者というより、正面から突撃した豪傑。
(伊賀忍者を指揮していた記録はある)
初陣(16)では家康から槍を賜るほど活躍した。

三河一向一揆(22)で自分は一向宗だったものの、
家康の味方をして厚く信頼される。
姉川の戦い・三方ヶ原の戦いで
一番槍となるなど「鬼半蔵」と呼ばれる。

本能寺の変(41)では、家康は堺で観光していた。
光秀の追撃が来るも、30名しか護衛がおらず、
主君:家康が絶体絶命のピンチを迎える。
堺⇒伊賀⇒三河のルートは険しい山道で、
しかも落ち武者狩り頻発の危険遅滞……
ここで半蔵が伊賀の土豪を味方につけ、
家康を無事に三河に帰し、伊賀の地を拝領する。
皇居の門や地下鉄線の名前など、後世に名を残す。

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斎藤道三

  • 1494年頃 誕生
    (信長の40歳上?)
    油売りから武士へ転身
  • 1526年(32) 側室が土岐氏⇒道三へ下げ渡し
  • 1527年(33) その側室から義龍が誕生(托卵)
  • 1530年(37) 下剋上で長井家乗っ取り
  • 1532年(39) 正室(19)と結婚
  • 1535年(42) 長良川の大氾濫で出家
  • 1542年(49) 美濃当主
  • 1548年(55) 濃姫を嫁に⇒信長と同盟
  • 1555年(62) 托卵疑惑で義龍と対立
  • 1556年(63) 義龍に討ち取られる

下剋上して、下剋上された

油売りから武士となり、槍の名手となる。
土岐氏に下剋上して美濃国主とまで成り上がった。
「美濃のマムシ」とも呼ばれる。
「大うつけ」と呼ばれた信長の器量を見抜き、
信長の強力な味方となった。

長男に托卵疑惑(というか確定)が発生した。
側室は土岐氏の元妾であり、
結婚して半年での誕生なので托卵とされた。
もし道三の子であれば下げ渡される前から
発射・的中しておかないと計算が合わないので、
間違いなく義龍は土岐氏の息子だろう。

いっぽう道三と正室の間には次男ができ、
寵愛して跡取りと決めた。
当然のことながら、
長男「義龍」はブチ切れて道三と対立する。
多数が義龍に味方したため、敗死。

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濃姫

  • 1535年 斎藤道三の長女で誕生
  • 1546年(12) 土岐氏に嫁ぐ
  • 1547年(13) 土岐氏死亡⇒斎藤家に戻る
  • 1549年(14) 信長の正室に
  • 1556年(21) 道三が義龍に討たれる
       その後は詳細不明

謎の人

12歳から政略結婚に振り回される。
土岐氏に嫁ぐも、翌年死亡して斎藤家に戻る。
2年後に信長の正室となるが、
2人の間に子供はできなかったらしい。

Cited from “Statue of Nōhime“.

エリカ様のおクスリ事件に代表されるよう、
テレビドラマ・小説では出演多数なので
なぜか知名度だけは高い。
(ほとんどすべて創作エピソードである)

信長公記にまったく記載がないうえに
他の信用に値する資料に乏しく、
生涯は謎に包まれており推測の域を出ない。
(父:道三が討たれてから記録が全くない)

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森蘭丸

  • 1565年 信長家臣の三男として産まれる
    (信長の31歳下)
  • 1570年(5) 父と長男が討死
  • 1577年(12) 信長に仕え寵愛を受ける
  • 1579年(15) 使者や取次で大役を任される
  • 1581年(17) 奉行で500石に
  • 1582年(18) 森可長の後継で5万石
       同年 本能寺の変で討死

マッチョイケメン

ムチャクチャな兄である森長可と正反対で、
品行方正・細やかな気配りが効く男であった。
信長のおホモだち兼側近として特別扱いを受け、
交渉役・取次役で右腕的な存在にまでなる。
長可が20万石の大大名になるため領地替となり、
後を継ぐ形で、5万石の大名となった。
豪傑である森家の血筋なのでガタイは良く、
美少年でありながら武勇は高かった。

しかし同年、本能寺の変が起こってしまう。
1.3万の大軍が四方から攻めてくると、
もはや脱出は不可能であった(AM6時)。
信長「これは謀反か?いかなるものの企てぞ」
蘭丸「明智の者と見受けます」
信長「是非に及ばず」
明智光秀ほどの者が企てたのであれば、
良いも悪いもなく、もはや運命は決まった。
計30人ほどで奮戦するも、焼け石に水……

信長は自ら弓をとって応戦し、
弓弦が切れると槍をとって応戦した。
左肘を負傷すると覚悟を決め、奥に退く。
(その際ついてくる女衆に逃げろ、と指示)
城に火を放って腹を掻き切った(AM8時)。
蘭丸・坊丸・力丸の森家3・4・5男も、
信長と共に槍をとって奮戦したが、討死した。

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織田信忠

  • 1557年 織田信長の跡継ぎとして産まれる
  • 1567年(11) 信玄の六女「松姫」と婚約
  • 1572年(15) 浅井長政攻めで初陣
       同年 三方ヶ原の戦い⇒婚約解消
  • 1574年(17) 長島一向一揆を鎮圧
  • 1575年(18) 長篠の戦いに大勝
       同年 織田家の家督継承
  • 1577年(20) 紀州征伐で雑賀攻め
  • 1578年(21) 三木城攻めで総大将
  • 1580年(23) 跡継ぎ:三法師が誕生
  • 1581年(24) 京都馬揃えで主役
    1582年(25) 甲州征伐⇒武田家滅亡
       同年 本能寺の変⇒二条城で討死

ロミオ

信長の後継者として誕生し、
信玄が急死し、長篠で武田家に大勝すると、
信長から家督を継承された(18)。
その後は総司令官として着実に武功を積む。
甲州征伐で武田家を滅亡させた際、
松姫(ジュリエット)の存命を知る(25)。
さっそく京都に招くと、松姫は出発した。

そのタイミングで本能寺の変が起こってしまった!
午前6時に明智軍1.3万が本能寺を全面包囲した。
信忠は妙覚寺に宿泊しており、
本能寺襲撃の報を受けると、現場に向かった。
その途中で信長自刃の知らせが届くと……
まだ明智軍が到着していないにもかかわらず、
二条城で籠城する道を選んでしまう。

本能寺から移動してきた明智軍は
正午には二条城の全面包囲を終えてしまった……
馬廻り数百の兵と1時間ほど奮戦した後、切腹。
二条城に行かず、さっさと逃げていれば、
秀吉の天下も江戸時代も、なかったはず……

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柴田勝家

  • 1522年 尾張の農村で誕生
    (信長の12歳上)
  • 1551年(30) 家督争いで信長弟を支援
  • 1556年(35) 信長に敗北⇒仕える
  • 1568年(47) 六角との戦で活躍
  • 1571年(50) 比叡山焼き討ち
  • 1573年(52) 浅井氏滅亡で活躍
  • 1575年(54) 越前75万石で信長家臣No.1に
  • 1577年(56) 手取川の戦い⇒秀吉とケンカ
  • 1582年(61) 本能寺の変
       同年 跡継ぎ問題で秀吉とケンカ
       同年 お市(35)と再婚
  • 1583年(62) 賤ヶ岳戦で敗北⇒お市と自刃

犬・猿(秀吉)の仲

織田家の家督争いでは弟側家臣として信長と対峙、
その後敗北して信長の家臣となる。
勝家は「鬼柴田」とも呼ばれるほど真っ向勝負、
秀吉は悪知恵を効かせるタイプで、気が合わず。

「上杉謙信 vs 秀吉+勝家」という胸アツの対決は
秀吉とケンカして弱体化し、ボロクソにやられる。
勝手に戦線離脱した秀吉に、信長は大激怒するが、
なぜかお咎めはなかった様子。
この頃の織田家は周りに敵が多すぎて、
秀吉を罰している余裕などなかったのである。

織田家臣No.1の絶頂期に、本能寺の変。
本来ならばエースの自分が光秀を討つ立場だが
中国大返しで秀吉に先を越され、光秀を討たれる。
おかげで信長の跡継ぎ問題は秀吉主導となり、
また秀吉とケンカし、賤ヶ岳の戦いに敗れ、
妻:お市と共に自刃する。

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蜂須賀 小六

  • 1526年 尾張国人領主のもと誕生
  • (信長の8歳上)
  • 1553年(27) 斎藤道三に仕える
  • 1556年(30) 道三が討たれ美濃を去る
  • 1557年(31) 川並衆を束ねる
  • 1560年(34) 桶狭間の戦いに信長側で参戦
  • 1566年(40) 秀吉の墨俣築城に協力
  • 1573年(47) 浅井長政戦⇒1600石
  • 1581年(55) 鳥取城攻め⇒5万石
  • 1582年(56) 本能寺の変⇒毛利と停戦交渉
  • 1585年(59) 四国攻めで長宗我部ブロック
        阿波18万石を拝領
  • 1586年(60) 死去

荒くれ者のボス

大河川の河川敷には罪人や浮浪者が溜まっており、
そこで1000人の野武士を束ねる棟梁だった。
信長のもとに仕えると、
その頃、秀吉は築城を命じられており、
1000の兵を従える小六を、秀吉が頼ってきた。
彼らは危険な水運を生業としていたので
大量の材木を一気に運ぶことで
墨俣築城(数日でプレハブ城)を達成できた。
遠征先で土着の野武士を統括するのも得意だった。

Cited by “https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Awa-odori_2008_Tokushima.jpg”.

中国攻めで5万石の大名に取り立てられ、
四国平定で阿波18万石を与えられ、息子に譲る。
その息子が徳島城を築城したとき、
完成を祝って領民と踊ったのが
「阿波踊り」の起源とされる。

矢作橋で秀吉の頭を蹴って……の話は、
有名だが創作なので割愛する。
秀吉は大名となったとはいえ武家出身でない。
代々の縁で信用できる家臣や親戚が極端に少なく、
小六のような存在は大変貴重だった。

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六角義賢

  • 1521年 名門:六角氏の跡継ぎとして誕生
  • (信長の13歳上)
  • 1549年(28) 三好長慶に敗れる
  • 1552年(31) 父の死去で当主となる
  • 1560年(49) 浅井長政が反乱⇒大敗し衰退開始
  • 1562年(51) 三好長慶と和睦
  • 1563年(52) 息子が重臣殺害⇒離反続出
  • 1565年(54) 三好三人衆が将軍義輝を暗殺
  • 1568年(57) 三好三人衆と信長・義昭を攻撃
      大敗して甲賀に引っ込む
  • 1570年(59) 浅井・朝倉と信長を攻撃
      信長包囲網でゲリラ的に攻撃
  • 1571年(60) 信長と将軍義昭が対立
  • 1573年(62) 信玄急死⇒信長包囲網が崩壊
  • 1574年(63) 信長が甲賀攻撃⇒六角氏滅亡
  • 1598年(78) 秀吉の話し相手⇒死去

名門だけど無能

三好長慶との和睦がうまくいかず(28)、
傘下だった浅井長政に独立され(49)、
息子ともうまくいかず、息子に重臣を殺害される。
これで離反者が続出してしまい衰退した。
(無能ランキングに入れるか迷った)

信長の誘いを蹴って三好三人衆についてしまい、
敗れて甲賀に逃亡する。
その後は信長包囲網にてゲリラ的に活動するが、
武田信玄の急死で一気に形勢逆転される。
信長が甲賀を攻撃し、あっさり六角家滅亡。

最後は秀吉のお伽衆(没落した名門の話し相手)
として過ごし、死去する。
鎌倉から続く名門家系であり畿内掌握できる
家系ながら、パッとしない人生だった。

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浅井長政

  • 1545年 近江(滋賀県)で誕生
    (信長の11歳下)
    六角氏家臣の娘と結婚
  • 1560年(15) 家督継承
    長男:万福丸が誕生
  • 1567年(23) 信長妹:お市と結婚・同盟
  • 1568年(24) 信長の将軍義昭上洛に従軍
    六角撃破
  • 1569年(25) 淀殿(茶々)が誕生
  • 1570年(26) 信長を裏切る
       同年 姉川の戦いに敗北
  • 1571年(27) 比叡山立てこもり
  • 1573年(28) 武田信玄が急死⇒形勢逆転
       同年 信長3万に攻められ自害

大人になれなかった……

身長180cm、体重100kgの戦上手メタボ系男子。
六角にペコペコのヘタレ父に変わってで家督継承。
15歳で六角2.5万を1.1万で撃退して武名を上げる。
これで家臣団の信頼を一気に得た。
朝倉家には古くから世話になっており、
信長との同盟は「朝倉を攻めない」を条件にした。

ところが上洛要請の拒否によって、
ついに信長(35)が朝倉に攻め込んだ(26歳)。
究極の選択で朝倉を選び、信長を攻めた。
この裏切りに、信長は烈火のごとく怒り狂う。
肝心の信長包囲網は、朝倉のバックレと
武田信玄の急死で崩壊してしまう。

信長が3万の大軍で攻め上がってくる……
朝倉に援軍要請するも、バックレられる。
信長は朝倉義景を討ち取り、次は居城を囲んだ。
秀吉が降伏を薦めてくるも、断固拒否し、
お市と浅井三姉妹を逃がして自害する(28)。
首は京で晒され、生き残った家臣は斬首され、
長男:万福丸は串刺し刑となった。

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足利義昭

  • 1537年 足利将軍の次男として誕生
    (信長の3歳下)
  • 1542年(6) 出家して僧になる
  • 1565年(26) 兄:義輝と母・弟が暗殺
  • 1568年(32) 信長と上洛⇒15代将軍に就任
  • 1569年(33) 本圀寺襲撃⇒信長と光秀が救う
  • 1570年(34) 信長ルールで対立
  • 1573年(37) 信長に敗れ京都追放される
  • 1576年(40) 放浪⇒毛利保護で鞆の浦へ
  • 1582年(46) 本能寺の変
  • 1588年(52) 将軍を辞し仏門へ
  • 1597年(61) 大阪で死去(1万石)

信長大好き⇒大嫌い

跡継ぎ候補でないので6歳で出家し、僧となる。
永禄の変(26)では、
将軍:足利義輝が暗殺三好三人衆に暗殺されると、
同時に母が火に飛び込んで自害し、弟も殺され、
自分も捕えられ、死を覚悟するが助け出される。

名門の朝倉義景を頼るがヘタレ過ぎたので
昇り竜だった信長に乗り換えた。
信長が三好三人衆を撃破すると、将軍となる。
しかし、2人は目的が違う……
義昭は室町幕府の復活、信長は天下統一である。
何をするにも信長に報告が義務付けられ、
信長は自由に動ける決まりがあった。
あまりに不公平な扱いで、2人の関係は悪化する。

信長包囲網を結成し、追い詰めるも、
あと一歩でエース武田信玄が急死……
将軍ブランドで殺されずには済んだものの、
京都からは追放されてしまう。
毛利輝元を頼ると、本能寺の変という朗報が!
また信長包囲網を結成しようと仲間を
募集しても相手にされず、室町幕府は滅亡した。
余生は秀吉の話し相手として、1万石で過ごす。

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筒井順慶

  • 1549年 寺を統括する家系で誕生
  • (信長の15歳下)
  • 1553年(2) 父の急死で家督相続
  • 1565年(16) 松永久秀に城を追い出される
  • 1566年(17) 三好三人衆+順慶で取り戻す
  • 1567年(18) 東大寺大仏殿の戦い
      久秀が大仏殿を焼き、首がもげる
  • 1571年(22) 信長に臣従(明智光秀配下に)
  • 1577年(28) 久秀が爆死
  • 1578年(29) 大和国を平定
  • 1582年(34) 本能寺の変⇒ヒヨる
  • 1584年(36) ストレスで死去

ひよこ

18歳で松永久秀に城を奪われるも、
翌年に三好三人衆と組んで城を取り返す。
織田信長に臣従すると、明智光秀配下となる。
28歳で宿敵:松永久秀が爆死すると、大和平定。
その後、「本能寺の変」が起こりヒヨる。
(日和見主義:両者を天秤にかけ、強い方につく)

  • 6/2 本能寺の変で信長が討たれる
    ⇒付き合いでとりあえず光秀に兵を出す
  • 6/12 秀吉の大群到着
    兵を引っ込めて自分の城にこもる
    光秀の援軍要請を突っぱねる
    ⇒すぐ使者を呼び戻して光秀の機嫌をとる
    秀吉にも恭順を示して機嫌をとる
    ⇒でも織田信孝(3男)の出兵要請はシカト
  • 6/13 光秀逃亡
    勝負がつき、どちらにつくか決定ヽ(^◇^*)/
  • 6/14 順慶(兵1000)で秀吉に加勢

勝敗が決まってからノコノコ出てきて
体裁を取り繕う姿に、秀吉が大激怒(((( ;゚Д゚)))
ここで「筒井筒」なる茶器を秀吉に差し出した。
これは天下に轟く名器中の名器……少し治まる。
清州会議(6/27)では、
順慶の大和国18万石(周辺を合わせて45万石)を
柴田勝家側につかせないため、お咎めナシ(●’Д’●)
その後は秀吉にコキ使われて心労が祟り、
ストレス性胃潰瘍で死亡(36)(´*ω*`)

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千利休

  • 1522年 堺の魚屋の次男で誕生
    (信長の12歳上)
  • 1538年(17) 教養のために茶道を習う
  • 1540年(19) 父と祖父が急死し継ぐ
  • 1544年(23) 初の茶会を開催
  • 1569年(48) 信長が堺を掌握する
  • 1570年(49) 信長に召し抱えられる
  • 1582年(61) 本能寺の変⇒秀吉配下に
  • 1583年(62) 秀吉に認められ茶室を完成
  • 1585年(64) 黄金の茶室を完成
  • 1590年(69) 愛弟子が鼻と耳を削がれ斬首
  • 1591年(70) 切腹

茶道の祖

Cited by “”https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Black_Raku_Tea_Bowl.jpg.

1569年に信長に仕えると気に入られ(47)、
信長の許可なくしては利休に習えないほどになり、
全国の大名の憧れの存在となる。
茶器の目利きも相当な腕前で、
次々と茶器に「信長ブランド」をつけた。
領地に代わる恩賞の誕生である。
格式の高い茶器があれば格式の高い茶会を
開催でき、また格式の高い茶会に呼ばれる。
茶会は現代の接待に相当するため、
軍事力・政治力の拡大に大変有利であった。
(そのため領土や恩賞の代わりになった)

1582年、本能寺の変で信長が死す。
秀吉に仕えると、「秀吉ブランド」を創造した。
……ところが、2人の趣味が合わない。
「侘び寂び」の地味な茶器を好む利休と
金ピカの派手な茶器を好む秀吉。
茶礼から始まる茶道を究めようとする利休と、
茶を立てて飲むことだけ考える秀吉。
密談・相談の場であった茶がド派手なパーティに。

小田原討伐の直前(=天下統一の直前)、
愛弟子が秀吉の趣味の悪さを公然と批判し
鼻と耳を削がれ斬首される。
その件がきっかけで秀吉に不信感を抱き、
二人の関係は急激に悪化した。
秀吉の朝鮮出兵を、利休を慕う多くの大名が
イヤがっていたので、家康とお茶をして相談。
それを知った秀吉が「密談した」と激怒し、
切腹の沙汰が下る……
(切腹の理由は諸説あり、わかっていない)

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豊臣秀頼

  • 1593年 茶々が托卵して爆誕
    (信長の59歳下)
  • 1595年(3) 秀次事件⇒跡取りに
  • 1596年(4) 元服
  • 1598年(6) 秀吉死去⇒当主に
  • 1600年(8) 関ヶ原の戦い(傍観)
       同年 200⇒65万石に減封
  • 1603年(11) 千姫と結婚
  • 1611年(19) 家康と二条城会見
  • 1614年(22) 方広寺鐘銘事件⇒大坂冬の陣
  • 1615年(23) 大阪夏の陣⇒自害

運命の子

秀吉は女狂いであり、数百人の側室と交わるも、
妊娠したのはなぜか茶々だけ……
秀吉が無精子症だったのは、確実とされる。
複数の文書にはっきりと、
「秀頼の父親は大野治長だ」と断定の記述がある。
秀吉の身長は140cm、秀頼は197cm・161kgだった。
祖父(浅井長政)は180cm、茶々は168cmで大柄。
(托卵相手の大野治長は高身長イケメンだった)

秀吉の領土は、本能寺の変のあと数年で急速拡大。
腹心の家臣が少なく、恐怖支配するほかないため
全国的に忠誠心は低く、朝鮮出兵で見限られた。
そのうえ秀次を殺してしまった……
秀吉の死後は、当然のごとく豊臣政権が崩壊した。

関ヶ原の戦いでは何もしなかったので領地減封。
とはいえ、家柄は豊臣>徳川のままである。
二条城会見で立派な青年となった姿を家康に見せ、
「コイツを殺しておかなければ」と決意される。
家康から難癖をつけれられ、大坂の陣となる。
全国の大名は家康についているので、
関ヶ原敗戦で無職となった浪人を掻き集めた。
急増チームで勝てるワケもなく、大敗する。
家康に助命嘆願をするが却下され、
茶々・秀頼・治長(パパ?)が共に城内で自刃した。
自刃するときも本丸でできず、
兵糧蔵に逃げ込んで見つかり、殺されかけて
やっとできたというオボッチャマぶり。

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高山右近

  • 1552年 松永久秀家臣の長男で誕生
    (信長の18歳下)
  • 1564年(12) 洗礼名ユスト:正義マンの意
  • 1568年(16) 織田家家臣となる
  • 1573年(21) 高槻城主となる
     この間、千利休の愛弟子になる
  • 1576年(24) 復活祭⇒領民の70%がキリシタンに
  • 1578年(26) 荒木村重(信長に謀反)から離脱
  • 1582年(30) 本能寺の変⇒光秀攻め先鋒
  • 1585年(33) 四国征伐⇒明石城主(6万石)
  • 1587年(35) 九州征伐途中、バテレン追放令
  • 1588年(36) 前田利家により1.5万石で復活
  • 1590年(38) 秀吉が天下統一
  • 1591年(40) 師匠:千利休が切腹
  • 1600年(48) 関ヶ原の戦い東軍
  • 1612年(60) 家康がキリシタン禁教令
  • 1614年(62) 国外追放でフィリピンへ

「超」キリシタン大名

松永久秀の家臣である高山ダリヨと
高山マリアの間に産まれる。
キリシタン大名といえばこの人。
「人徳の人」として有名であるものの
仏教徒の間では暴君とされる。
高槻市に古い神社や寺がやたらと少ないのは
右近の所業である。

山崎の戦いで明智光秀を討った時は
秀吉から先鋒を頼まれるなど武勇が高い。
秀吉はバテレン追放令をだしたものの、
武将として右近の才能を惜しんだ。
千利休を遣わせて棄教を説得したが、
キリストの教えに背くことはできない……
地位や財産すべてを捨て浪人となる。

家康はさらにキリスト教を厳しく弾圧した。
とはいえ、右近を処刑すると殉教扱いになり
神格化されてしまう……国外追放とした。
マニラで大歓迎されるも、40日後に死去した。

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後藤又兵衛

  • 1560年 姫路市で次男として誕生
    (信長の26歳下)
    幼少期に父を亡くし黒田家で育つ
  • 1578年(19) 親族のせいで黒田家追放
  • 1586年(27) 黒田家に復帰
  • 1592年(33) 朝鮮出兵で一番槍
  • 1600年(41) 関ヶ原東軍で筑前1.6万石
      細川忠興と戦友になる
  • 1606年(47) 細川家に通じ黒田家追放
  • 1611年(52) 黒田家根回しで失職⇒浪人
  • 1614年(55) 大坂陣(冬)で兵六千の指揮
  • 1615年(56) 大坂陣(夏)大軍相手に討死

槍の又兵衛

180cmを超える巨漢、53もの傷を背負い、
「不運の猛将」として知られる。
その武勇の高さから黒田二十四騎、黒田八虎、
大坂牢人五人衆、大坂城七将星などに数えられ、
いずれも筆頭クラスである。
主君に恵まれさえすれば、大大名だっただろう。

黒田官兵衛に仕え、本人の責任でないものの
追放や復帰を繰り返すハメになる。
父:黒田官兵衛には可愛がられたが、
息子:黒田長政とは対立した。
官兵衛が死亡すると、また黒田家を追放される。
又兵衛は細川忠興(ガラシャ夫)につこうとするが、
両家が大揉めして士官できず、浪人にされる(52)。

大坂の陣では豊臣家が全国の浪人を募っていた。
朝鮮出兵や関ヶ原の戦いで武名がある又兵衛が
浪人衆の統括としてスカウトされる。。
冬の陣では6000の兵を率い、見事な采配で
上杉・佐竹勢の猛攻を撃退する。
夏の陣では3000の兵を率い、薄田兼相の遅刻で
孤立するも10倍の兵相手に突撃し、討死した(56)。

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藤堂高虎

  • 1556年 土豪の次男として誕生
    (信長の22歳下)
  • 1570年(14) ①浅井長政の足軽(300石)
    諍いから同僚を殺害してしまい、逃走
  • 1573年(17) ②阿閉氏⇒裏切り者で見切り
       同年 ③磯野氏⇒信長に敗走
  • 1574年(18) ④津田氏⇒報酬に不満
  • 1576年(20) ⑤秀吉弟を慕う⇒300石
  • 1581年(25) 丹波攻めで鉄砲大将3000石
  • 1582年(26) 本能寺の変⇒賤ヶ岳4000石
  • 1585年(30) 紀州征伐で5000石
       同年 四国征伐で1万石
  • 1587年(32) 九州征伐で2万石
  • 1591年(36) ⑥秀吉弟の跡継ぎ⇒急死
       ⑦秀吉の目にとまり仕える
  • 1595年(40) 朝鮮出兵1で7万石
  • 1598年(43) 朝鮮出兵2で8万石
       同年 秀吉死去⇒⑧家康配下に
  • 1600年(45) 関ヶ原東軍で20万石
  • 1615年(60) 大坂夏の陣⇒32万石
  • 1630年(75) 死去

転職の達人

①浅井長政の足軽として姉川の戦いで活躍するが、
3年後に浅井氏が滅亡し、転々とする。
②③④とイマイチな主君だったが、
⑤秀吉の弟(豊臣秀長)とはうまくいった。

賤ヶ岳の戦いで0.4万石、四国征伐で1万石。
この間、家康の城を改修して感謝される。
九州討伐で2万石、その後朝鮮出兵①などで活躍、
7万石(宇和島)を与えられる。
朝鮮出兵②での武功により8万石(+大洲)となる。
秀吉が死去すると、家康に仕え関ヶ原東軍で主力級。
20万石(+今治)の大大名となる。
伊賀に移り、大阪の陣で32万石に加増された。

気に入らない主君だと長続きせず、
8人の主君に仕えた転職の達人。
自ら先鋒を志願するような豪傑であり、
槍働きでバンバン出世した男である。
身長190cm、体中に弾傷・槍傷があり、
右手の指2本がちぎれ、爪のない指も多かった。

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福島正則

  • 1561年 桶屋の長男として産まれる
    (信長の27歳下)
  • 1578年(18) 初陣(播磨の三木城攻め)
  • 1582年(22) 本能寺の変
       山崎の戦いで500石に
  • 1583年(23) 賤ヶ岳の戦いで5000石に
  • 1587年(27)  九州平定で11万石(今治)
  • 1595年(35) 秀次に切腹を伝える役目 
       同年 尾張24万石
  • 1598年(38) 豊臣秀吉が死去
  • 1599年(39) 朝鮮出兵で三成と険悪に
  • 1600年(40) 関ヶ原東軍で50万石に
  • 1611年(51) 二条城会見で茶々を説得
  • 1612年(52) 大阪の陣には参戦せず
  • 1619年(59) 城の無断改修で4.5万石に
  • 1624年(61) 隠居した後に死去
      無断で火葬し、城を没収される

リフォーム失敗で50⇒4.5万石

母が秀吉の叔母だった縁で
秀吉のもと200石で小姓となる。
先陣を切る猛将タイプで着実に出世し、
桶屋の息子が11万石の大大名にまでなれた。
と、いうわけで豊臣家には多大な恩がある。

朝鮮出兵後は三成の態度に激怒し、関ヶ原東軍へ。
大阪の陣では家康と秀頼で苦労する。
家康から「挙兵するな」、秀頼から「参戦して」
……結局、何もしなかった。

台風により大洪水で城が壊れると、
幕府の許可が下りる前に修繕を開始してしまう。
これが武家諸法度違反となり、
広島50万石⇒越後4.5万石に減転封された。
61歳で死去するも、幕府の検使官が到着する前に
家臣が火葬してしまい、城を没収されてしまう。
死んだ後も踏んだり蹴ったりだった。

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尼子晴久

  • 1514年 尼子家の2男として誕生
  • (信長の20歳上)
  • 1518年(4) 父・兄の死亡で跡取りに
  • 1537年(24) 尼子家当主となる
  • 1540年(27) 毛利攻めで大敗
  • 1542年(29) 月山富田城の戦い①
       大内義隆+毛利元就を撃退
  • 1543年(30) 石見銀山を奪回
  • 1551年(38) 陶晴賢の下剋上
    大内氏衰退⇒8ヶ国中国最大勢力に
  • 1554年(41) 元就謀略で家臣を粛清
  • 1555年(42) 厳島の戦いで陶自害
      これで毛利元就が急速拡大
  • 1561年(47) 急死
  • 1566年 毛利に敗れ尼子氏滅亡

中国地方の元覇者

当主となった直後に連戦戦勝で調子に乗る。
そこで3万の大軍で毛利攻めを行うが、
元就に3000の兵で大敗して弱体化する。
さらに家臣の反対を押し切って安芸遠征するも、
「毛利元就+陶晴賢」に返り討ちにされる。

月山富田城の戦い(29)では、
毛利元就と陶晴賢の意見が食い違い、撃退成功。
その後、陶の下剋上で大内義隆が討たれると、
晴久は一気に中国を攻め8ヶ国最大勢力となる。
いっぽう元就も厳島の戦いで陶を討ち、急拡大。
毛利と尼子が中国地方の2大勢力となる。
雌雄を決する……時に晴久が急死してしまう。

父:晴久の急死で義久が後を継ぐも、
毛利元就の謀略で有力な家臣を粛清してしまう。
尼子は内乱が続発し自滅、そこに攻め込まれると、
難攻不落の城は落ち、尼子氏は滅亡する。

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長宗我部元親

  • 1539年 跡取りで誕生
    (信長の5歳下)
  • 1560年(22) 初陣⇒父死去⇒家督継承
  • 1575年(37) 土佐国統一
  • 1580年(42) 信長の要求を拒絶
  • 1582年(44) 本能寺の変で命拾いする
  • 1585年(47) 四国全土を統一
       同年 秀吉に敗退⇒土佐一国に
  • 1586年(48) 九州征伐で跡継ぎが戦死
  • 1588年(50) 家臣を次々に切腹・処刑
  • 1591年(53) 大阪城に鯨1匹プレゼント
  • 1599年(61) 病没

年代ごとに大変身

姫若子⇒鬼若子⇒四国の覇者⇒狂人……
少年・青年・中年・老年でのギャップがすごい。
少年時代は姫若子wとバカにされていたが、
戦が始まると豹変し、獅子奮迅の活躍を見せる。
青年時代は「鬼若子」と恐れられた。
身内を周辺豪族と次々と結婚させてから
乗っ取って勢力を拡大していった。

四国の覇者まであと一歩……と、いうところで
信長「半分オレによこせ」と言われて対立。
信長に討伐される直前に、本能寺の変。
超絶なラッキーで死なずに済む。
ところが秀吉が10万の兵で四国討伐を開始し、
桁違いの武力に降伏した。

秀吉配下で九州征伐に参加させられ、
島津にボロクソにやられて長男が討死し、
精神が崩壊する。
跡継ぎ問題では二男を自殺に追い込み三男を幽閉。
自分に意見する家臣を次々と処刑し、
ボケたまま61歳で死んだ。
残った末息子は関ヶ原西軍で敗れて没落、
大坂の陣では豊臣方で再起を図るも、敗れて処刑。
その孫たちも全員処刑され、お家滅亡した。

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加藤嘉明

  • 1563年 家康家臣の長男として誕生
  • (信長の29歳下)
  • 1564年(1) 三河一向一揆で父が謀反
      敗れて一家浪人となる
  • 1576年(13) 播磨攻めに無断で参戦
      秀吉に気に入られ300石
  • 1578年(15) 三木城戦で首2つ
  • 1582年(19) 本能寺の変
  • 1583年(20) 賤ヶ岳七本槍3000石
  • 1586年(23) 1.5万石の大名(淡路津名)
  • 1592年(29) 朝鮮出兵①水軍で活躍
  • 1594年(31) 伊予国6万石
  • 1600年(37) 関ヶ原東軍⇒20万石
  • 1601年(38) 松山城を築城
  • 1627年(64) 会津44万石
  • 1631年(68) 死去

大胆な優等生

秀吉よりも不利な孤児からのスタートであり、
そこから44万石の大大名にまでなった。
馬の仲買人の手伝いをしており、
13歳で暴れ馬を制するところを、
たまたま加藤氏の目に留まりスカウトされる。

秀吉が播磨に出陣すると、
職務をほったらかして秀吉に参戦を直訴。
妻おねは激怒するが、秀吉には気に入られた。
後に賎ヶ岳七本槍(秀吉チルドレン)として
3000石を与えられる。

四国攻めでも活躍し、淡路1.5万石の大名に。
ここで淡路水軍を任されたのがきっかけで
水軍に強くなり、朝鮮出兵でも活躍する。
敵船に単身乗り込んで船を3隻乗っ取るなど、
かなり大胆な戦い方をする。
その後伊予国20万石⇒会津44万石と出世した。
(しかし死後、バカ息子が領地没収させられた)

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加藤清正

  • 1562年 尾張の刀鍛冶で誕生
    (信長の28歳下)
  • 1573年(11) 秀吉の小姓となる
  • 1576年(14) 元服し170石となる
  • 1581年(19) 鳥取城攻めで270石に
  • 1582年(20) 本能寺の変で中国大返しに参加
  • 1583年(21) 賤ヶ岳七本槍で3000石に
  • 1584年(22) 長久手の戦いで侍大将5500石に
  • 1585年(23) 四国征伐
  • 1586年(24) 九州征伐
  • 1590年(28) 肥後20万石の大大名に
  • 1592年(30) 朝鮮出兵①で虎退治
  • 1597年(35) 朝鮮出兵②でセロリを伝播
  • 1598年(36) 大恩人の秀吉が死去
  • 1600年(38) 関ヶ原の戦いは不参加
    (でも官兵衛の九州支援で活躍し52万石に)
  • 1610年(48) 名古屋城の築城に協力
  • 1611年(49) 家康秀頼の会見でストレス死 

絵に書いたような優等生

教育ママの母と秀吉の母と従妹だったので
福島正則らと共に秀吉の小姓となる。
秀吉は農民出自であり、武家に親戚がおらず、
自分の数少ない親戚として手厚く育成した。
賤ヶ岳の戦い(21)では若武者として活躍し、
七本槍の1つに数えられ、3000石を配領する。

佐々成政がポシャッたため、
肥後国の大大名に取り立てられる(28)。
南蛮貿易や商業政策で善政を行う。
朝鮮戦争では不敗の将として恐れられる。
現地では女性への暴行を禁止、解放するなど
人徳が高い大名である。

家康と秀頼の二条城会見を取り持ち、
両者の関係改善に尽力するも、
その3ヵ月後に熊本で死去した(49)。
ムチャクチャな難癖をつけてくる家康の仲介、
豊臣のプライドで全く折れない茶々の説得、
でも何か起これば全責任を負わされる……
ものすごいストレスだったことだろう。

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宮本武蔵

  • 1584年 播磨国の宮本村に誕生
    (信長の50歳下)
  • 1596年(13) 新当流と決闘して勝利
  • 1599年(16) 秋山新左エ門と決闘勝利
  • 1600年(17) 関ヶ原の戦いに参戦
  • 1604年(21) 吉岡流と決闘して勝利
  • 1607年(24) 宍戸梅軒(鎖鎌)に勝利
  • 1610年(27) 柳生新陰流に勝利
  • 1612年(29) 佐々木小次郎に勝利
  • 1614年(31) 大坂の陣に参戦
  • 1622年(39) 東軍流に勝利
  • 1637年(54) 島原の乱に参戦
  • 1640年(57) 肥後国(熊本)に招かれる
  • 1641年(58) 兵法35ヶ条を執筆
  • 1643年(60) 五輪書の執筆開始
  • 1645年(62) 五輪書の完成⇒死去

60戦無敗(自己申告)

Cited by “Ganryu-jima Island“.

佐々木小次郎は細川家で剣術指南をしていた。
そこに二刀流の剣術指南として
宮本武蔵が雇われた。
弟子たちの間でどちらが強いのか?と争ったため
師匠同士が巌流島で決闘することになる。

熊本に移ってからは隠居生活に入り、
国宝級の水墨画や工芸品を残した。
文化人としても名高い。

佐々木小次郎(年齢不詳)

Cited by “Statue of Sasaki Kojirō“.
  • 1612年5/13 巌流島の戦い

宮本武蔵(20代)vs 佐々木小次郎(60代)。
小次郎は「1対1の決闘」という約束を守り、
たった1人で巌流島に渡った。
いっぽう武蔵は弟子を連れて隠れさせていた。

武蔵の木刀で気を失ったところを、
皆で袋叩きにされて殺された、という説が有力。
もしこれが史実ならば若者の集団が
老人を撲殺しただけのリンチ殺人である。

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天草四郎

  • 1614年 宣教師「25年後に16歳の天童現る」
  • 1621年 小西行長の家臣のもと誕生
    (信長の87歳下)
    この間に、様々な奇跡を起こした(らしい)
  • 1637年(16) 島原の乱で総大将
  • 1638年(17) 斬首

大人に利用された

前領主はキリシタン大名だったので、
領民もキリシタンばかりの土地である。
前領主は関ヶ原の戦いで西軍についたため、斬首。
その家臣や武士は百姓や浪人に落ちぶれていた。
そこにバカ殿松倉が派遣されてきて、
禁教令の強化もあり徹底的に弾圧された。

そこで「救世主」と呼ばれていた少年を
担ぎ上げて、団結することになった。
容姿端麗の美少年で高い教養を持ち、
そのカリスマ性から神輿として最適だった。

天草四郎を総大将として3.7万が集結。
(実際は旧家臣や浪人が指揮をとった)
史上最大の一揆が起こったが……
3ヶ月の兵糧攻めで憔悴しきったところを
12万の大軍で総攻撃を受け、全員が斬首された。

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信長の時代

全体の流れをざっくりと示す。

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秀吉の時代

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家康の時代

まとめ

起承転結とは?

本能寺の変……その影響は、計り知れない。
日本史上最大の衝撃により、多くの人生が
良くも悪くもひっくり返った。
もちろん、日本の歴史もひっくり返った。

看護師が終末期にとったアンケートで、
「人生で最も後悔していることは何ですか?」
最多の回答は
「挑戦しなかったこと」だった。
レールの上を歩くような人生では、
最期に後悔するということだ。

歴史に名を残すような人物の多くは、
人生において「大博打」を何度も打っている。
就職、結婚、転職、住宅ローン……
博打を打つシーンは凡人にだって何度もあるし、
どんな風に生きても、後悔はある。

人生は、いろいろある。

いずれにせよ、
歴史に「たら・れば」はない。
人生にも「たら・れば」はない。
同じチャンスは二度と来ない。
真剣勝負とは、一度きりである。



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