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【図解】黒船来航「幕末15年間」薩長同盟と大政奉還、不平等条約

伊藤博文・木戸孝允・高杉晋作など過激派で
危険人物ばかりの長州藩、イケメン勝海舟、
パパ西郷隆盛、パシリ坂本龍馬、など
個性的な人物ばかりである。

米英仏蘭露
「仲良くしようね!(逆らったら滅ぼす)」
そこに、日本は倒幕の内乱が重なる……
一体、どうなってしまうのか?

黒船の大きさは、幕府が持つ軍艦の25倍である。
4隻が堂々と東京湾の中(!)に入ってきた。
ここから「幕末」がスタートする……

  • 1853年 黒船来航
    アメリカが強制開国しにきた
  • 1854年 日米和親条約
    アメリカと不平等条約
  • 1858年 7月 安政五カ国条約
    米英仏蘭露と不平等条約
     同年 8月 ⑬徳川家定が死去
    井伊直弼が⑭家茂継承と条約締結を断行。
    同時に、反対派が爆発。
  • 1858年 安政の大獄
    井伊直弼が反対派を弾圧
  • 1860年 桜田門外の変
    仕返しに井伊直弼を殺害
    1862年 生麦事件
    薩摩藩がイギリス人を殺しちゃった
    1863年 下関事件
    長州藩が米仏蘭商船を砲撃しちゃった
  •  同年 薩英戦争
    仕返しにイギリスが薩摩を攻撃。
    薩摩藩が「攘夷不可能」を悟る。
    1864年 禁門の変⇒長州征伐①(成功)
    長州藩が幕府に降伏
     同年 下関戦争
    仕返しに米英仏蘭が長州を攻撃。
    長州藩が「攘夷不可能」を悟る
    1866年 薩長同盟⇒長州征伐②(失敗)
    長州藩が最新兵器で幕府を圧倒した。
     同年 将軍が⑭家茂⇒⑮慶喜
    1867年 孝明天皇⇒明治天皇
     同年 大政奉還
    「政権を明治天皇に返す」パフォーマンス
    1868年 王政復古の大号令
    「明治天皇が政権を作るぞ!」クーデター

    新政府軍と旧幕府軍が激突し、
    明治維新へ続く……
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黒船来航

それまでも欧米列強から、開国の打診はあった。
とはいえ、湾には砲台が配備されており、
欧米の船を「湾の外」で追い返していた。

堂々と東京湾に入ってきたということは、
「撃ちたければ撃ってこいw」
という自信の現れでもある。
つまり海上からでも、
江戸を火の海にする自信があるということだ。

鎖国が崩壊へ

  • 清(古い付き合いがある)
  • オランダ(幕府の条件を飲んだ)

幕府が交易していた国は2ヵ国のみである。
日本のモノはヨーロッパで高値がついたので
オランダはボロ儲けしていた。

米英仏露などの欧米列強は不公平と感じる。
さらに、
アメリカは太平洋の拠点・中継地として、
イギリスは産業革命で大量生産したモノを
売る先として、日本を開国させたかった。

天皇・幕府・外国

Cited from “Hakko-daiodo“.

孝明天皇は拒否しろと言うし、
欧米は拒否すれば戦争の雰囲気……
幕府は天皇と欧米の間で板挟みであった。

ペリー

「来年、返事を聞きに来る」
(直訳:逆らったら……わかるね?)

急いで港周辺に砲台を設置し、
平和的に断る体制を整えたが……

日米和親条約(不平等)

1年後、7隻の黒船を率いて再び来航してきた。
日本の水軍とはスケールが違いすぎる……
断れば江戸が火の海になるのは明らかであり、
ビビッて条約を結んでしまった。

  • 下田と函館を開港
  • 水と燃料を補給する
  • アメリカをどの国よりも優遇する
    (最恵国待遇)

アメリカは日本を他国より優遇してはくれない。
要するに、日本は「ザコ」なのである。

天皇・大名が猛反発

孝明天皇は外国そのものが大嫌い。
大名は欧米の考え方が大嫌い。

なぜか?
日本では武士や貴族、大名は平民より上の存在。
欧米では「人類皆平等」である。
民衆が支配者に従わなくなれば、
あっという間に侵略されてしまう。

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安政五カ国条約(不平等)

  • 修好通商条約
  • 将軍継嗣問題

大老「井伊直弼」は、
不平等条約をどうするか?
次の将軍は誰にするか?
という2つの問題を抱えていた。

アメリカと不平等条約

アメリカ「日本とも貿易したい(強制)」
「日米修好通商条約(6/19)」も不平等条約であった。

・関税はアメリカが決める
・日本のアメリカ人犯罪はアメリカが裁く
(領事裁判権)
・アメリカをどの国よりも優遇する
(最恵国待遇)

英仏蘭露とも不平等条約

Cited from “World Imaging“.
  • 日蘭修好通商条約(7/10)
  • 日露修好通商条約(7/11)
  • 日英修好通商条約(7/18)
  • 日仏修好通商条約(9/3)

英仏蘭露「アメリカだけズルい!」
「オレも!オレも!オレも!オレも!」
断れば他国と戦争になる雰囲気だったので、
他の国ともなし崩し的に契約させられた。

断れなかった

井伊直弼「新潟・神奈川・兵庫・長崎も開港する」

なぜ不平等にもかかわらず条約を結んだか?
強いのは、アメリカだけではない。
清はアロー戦争で英仏に壊滅させられたばかり。
断れば日本も同じメに遭うのは明白だった。

しかしこれで全国の大名から幻滅され、
幕府の権威は地に落ちた。

将軍⑬⇒⑭

徳川家定に別タブでジャンプ
徳川家茂に別タブでジャンプ

開国派で先進的な考えだった井伊直弼は、
各国と不平等条約を締結、将軍を⑭徳川家茂と、
反対派を押し切って強引に進めた。

鎖国方針を棄てて大転換したのである。

安政の大獄

この強引な手法は、攘夷派や
将軍の継承争いに敗れた派閥をブチ切れさせた。
しかし、井伊直弼は反対派に大弾圧を行う。

反対派の100名以上を処罰・投獄、
8名を処刑するなどして一蹴した。
長州藩のカリスマである、
吉田松陰もこの時に処刑された。

桜田門外の変

怒り狂った攘夷派18名は、江戸城で待ち伏せた。
桜田門から出てきた井伊直弼を捕まえ、斬首。

井伊直弼
「国のために力を尽くしたので後悔はない」

安政の大獄で印象がイマイチなものの、
地元の彦根では名君と呼ばれ、
周りの人物からの評判も良かった人物である。
政治家としては優秀といえる。

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公武合体派

ここで日本には2つの勢力ができる。
幕府と朝廷が一体となる「公武合体派」と、
天皇を崇め外国を排除する「尊皇攘夷派」である。

公武合体派は国内の安定を重視、
尊皇攘夷派は外国排除を重視している。

尊皇攘夷派が優勢に

尊皇攘夷派とは、天皇を中心として
欧米列強を撃退すべき、との勢力である。

長州藩「不平等条約は絶対反対!」
孝明天皇「このままじゃ日本が乗っ取られる」
長州藩「外国はすべて排除しろ!」
孝明天皇「そうだそうだ!」

天皇のお墨付きを得たと思い、長州藩は活気づく。
ただし天皇が考える攘夷と、
長州が考える攘夷は、まったく違った。

この違いが、いずれ長州を孤立させる。

公武合体派は弱体化

Cited from “Hakko-daiodo“.

公武合体派とは公(朝廷)と武(幕府)が
協力して政治を行うべき、との勢力である。

ところが、
欧米列強から不平等条約が連発したため、
外国を受け入れた「幕府」と、
外国を拒絶する「朝廷」で割れてしまった。
(朝廷とは、天皇を中心とする組織である)

日本各地で天皇を崇拝する勢力が外国排除で騒ぎ、
武力闘争が起こるようになってしまった。

幕府と朝廷を仲裁

Cited from “Hakko-daiodo“.

公武合体派で日本の主役を狙ったのが
「薩摩藩」である。

島津久光が公武合体政策の推進のため、
江戸に赴いて「協力しろ」と提言。
戦わずして反乱を治めるこの案に、
江戸幕府(東京)は乗ってきた。

次は朝廷(京都)にそれを伝えに行く……
その時、トンでもない事件が!

生麦事件

島津久光「ええ仕事ができたばいw」

京都に向かう途中、横浜のあたりを通過した。
当然のごとく、横浜エリアには貿易に関わる
外国人スタッフや商人がたくさん住んでいる。

イギリス人を殺害

島津久光の大名行列が横浜の生麦村に到着すると、
イギリス人4名(男3女1)が
馬に乗ったまますれ違った。
当時の日本では、あり得ない狼藉である。

「すぐに下馬しろ!道端によけろ!」
日本語で言ってもまったく通じず……
男1名が切り捨て、男2名が重症となる。
(女1名は頭を剃られた)

イギリス「近くを通っただけで殺された!?」
外国人にとっては意味不明な殺人事件でしかない。
当然のごとく、イギリス側は怒り狂った。

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薩英戦争

1年後、イギリス軍が報復に来た。

当時のイギリス海軍は、世界最強であり、
日本みたいなザコの、しかも一都市が相手。
「薩摩藩なんて楽勝ダw」

ところが……

引き分け

戦いは8/15・16・17の3日間行われ、
薩摩の街は火の海となった。
いっぽう、英国側にも戦死者が続出する。

薩摩からすれば、あれだけ大砲を打っても
たった7隻に引き分けるのが精一杯……
イギリスは自慢の海軍であるにもかかわらず、
7隻のうち3隻を失った。

お互い認め合う

Cited from “mukai“.

薩摩は近代的な戦術・兵器を目の当たりにし、
「イギリスから文化を取り入れたい」
イギリスは薩摩藩の実力を認め、
「薩摩藩は次の日本のリーダーになる」

薩摩とイギリスは独自に貿易し、
薩摩から留学生も送った。
イギリスとしては、自国の息のかかった若者が
増えることは大歓迎である。
(将来、他国より優遇してもらえる)

留学生が帰国

  • 日本は、あまりにも遅れている
  • 欧米と広く貿易をすべき
  • 鎖国のままでは日本が滅ぼされる

留学生は、イギリスとの文明差に愕然とする。

新しい政府が必要

あいかわらず徳川幕府は貿易を独占し、
諸藩がチカラをつけないように制限している。
そんなヌクヌクした状態を続けていれば、
欧米列強の植民地になるのは時間の問題だ。

欧米を知ってしまった薩摩藩には、
そんなこと、もう受け入れられない。
欧米列強に劣らない国づくりのために、
「新しい政府」が必要と考え始める。

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尊王攘夷派

  • 尊王……天皇を崇拝する
  • 攘夷……外国を排除する

尊皇攘夷派で日本の主役を狙ったのが
「長州藩」である。

  • 薩摩藩・会津藩:公武合体派
  • 長州藩:尊皇攘夷派

幕府が賠償金を支払うと……

子分の責任は親分がとる形になり、
幕府が生麦事件の賠償金を支払った。

それに反発した長州藩に天皇がまた乗ってきた。
天皇が言った以上、幕府も攘夷せざるを得ない。
これで長州藩は勢いづいた。

下関事件(1863)

天皇が攘夷を打ち出し、将軍が了承した……
若手が多く、イケイケだったので
まず下関を通る米仏蘭船を攻撃して攘夷を示した。

しかし、他藩が続かなかった……
そこで長州藩はトンでもない計画を思いつく。
「天皇が指揮をとれば皆が続くはず!」

いっぽう、天皇は戦争など望んでいない。

8/18の政変

孝明天皇はあまりにも過激な長州藩を嫌悪した。
そこで会津藩・薩摩藩に御所を守らせ、
長州藩を京都から追放した。

これは密命だったので、
長州藩は天皇の意志とは知らず、
「会津・薩摩」に対し、ブチ切れた。

池田屋事件(1864)

「京都に火を放ち、混乱させる」
「京都守護の松平容保を殺す」
「天皇を長州に連れ帰り指揮をとってもらう」
このクーデターを実行するため、
京都の旅館「池田屋」に集まっていた。

ここで池田屋を襲撃し、この事件を未然防止し、
京都が火の海にならず、名を上げた集団がいた。
会津藩配下の治安部隊「新撰組」である。

いっぽう、
長州藩はこの襲撃で多くの有力志士を失った。
8/18の政変、池田屋事件ときて、
長州藩の過激派は「完全に」ブチ切れる。

禁門の変

尊攘攘夷派(長州藩)と、
公武合体派(薩摩藩+会津藩)が激突した。

会津藩 vs 長州藩のうちは長州藩優位だったが
そこに薩摩藩が参戦すると逆転。
長州藩は敗北して京都から追い出された。

この時に長州藩は京都御所に発砲してしまい、
「朝敵」とされてしまう。
これで尊王攘夷運動は終了となった。
(尊皇攘夷派なのに、天皇の敵になっちゃった)

禁門の変を起こした罪で武器購入を禁じられる。
そして、第一次長州征討が決定した。
長州藩はもう滅亡してもおかしくないが……

第一次長州征討

2人とも内乱は反対、開国は賛成である。
勝海舟と西郷隆盛の話し合いした結果、
戦闘は行わずに幕を閉じることにした。

なぜか?
欧米列強による植民地化の脅威があり、
日本国内で内乱している場合でなかった。

そこで長州藩の穏健派が幕府に謝罪し、
家老3名が切腹して手打ちとなる。
この「超」甘い処分が、
日本の歴史そのものを変えることになる。

下関戦争(8月)

悪いことは重なるもので、同じ時期に
長州藩は米英仏蘭から下関事件の報復も受けた。

日本にとっては
「長州藩が単独で米仏船に砲撃した」である。
しかし外国にとっては、
「日本が、欧米に攻撃した」である。

長州藩は英仏米蘭の4ヵ国連合艦隊に
ボコボコにやられた。
圧倒的な差に、長州藩は攘夷の無謀さを悟る。

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薩摩と長州

犬猿の仲というか、
長州が薩摩を一方的に恨んでいただけだが……
なぜ敵対していた薩摩と長州が組んだのか?
理由は1つしかない。

  • 生麦事件⇒薩英戦争(薩摩 vs イギリス)
  • 下関事件⇒下関戦争(長州 vs 米英仏蘭)

薩摩・長州「攘夷など、不可能」
欧米列強と戦って同じことを感じたからである。
あとは、長州が薩摩に歩み寄るだけでいい。

薩長はなぜ、強い?

戦国時代の祖先をみれば一目瞭然。

西日本No.1の毛利家が長州藩に、
攻撃力全国No.1の島津家が薩摩藩に
なっている。

薩摩藩の状況

  • 琉球・イギリスとの密貿易で繁栄
  • 幕府から「長州を攻めろ」と指示

独自の貿易で成功はしていたが、
幕府にとって脅威的な存在であった。

幕府
「薩摩は徳川に取って代わろうとしている」
「薩摩をどげんかせんといかん」

薩摩藩の思惑

  • 長州藩との内戦は避けるべき
  • でも、幕府に逆らいたくない
  • 日本は欧米化すべき

幕府はいらない、新政府が欲しいけれども、
薩摩自ら先頭に立って戦う時期でもない。

薩摩「幕府をどげんかせんといかん」

長州藩の状況

  • 幕府からも朝廷からも嫌われ孤立
  • 藩の存続の危機で後がない
  • 武器が購入できない
  • 保守派を抑え、過激派が台頭

高杉晋作・伊藤博文・木戸孝允などが、
幕府に頭を下げる情けない保守派にブチ切れ、
過激派が長州藩を仕切るようになった。

長州「幕府を倒さねば!!!!」

長州藩の意志

  • 朝敵の汚名を晴らしたい
  • 幕府と戦いたい
  • とにかく武器がほしい

禁門の変で尊王攘夷運動が終わってしまったので
攘夷派の過激派が「討幕・開国」に変わった。
しかし禁門の変の処罰で輸入できなくなり、
武器が無い……戦えない……

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薩長同盟?

「薩摩・長州で幕府を倒そう!」ではない。
土佐藩の志士が斡旋した「会談」である。
 ※「同盟」という表現は大げさすぎる。

討幕とか新政府の話ではなく、武器の話である。

薩長の会談

  • 長州を薩摩は攻めないよ
  • 薩摩は長州を支援してね
  • 薩摩は長州を見捨てないでね

薩摩名義の武器を長州が密輸することになった。
これらは、口約束でしかない。
(文書など残して幕府に見つかればオワリ)

瀕死の長州藩を薩摩藩が救済する、という
まったく対等でない関係である。
長州藩が「お願い」する立場であった。
でも、お願いする態度ではなかったので、
坂本龍馬たちが仲裁した。

なぜ薩摩藩が引き受けた?

薩摩も長州も、
「外国の排除は不可能」
「幕府をどげんかせんといかん」
という意見は一致していた。

薩摩藩は政治に口を出すので幕府から嫌われた。
長州征伐のために今は生かされているが、
長州の次は、薩摩征伐であるのは明白だった。

長州という狂犬を「かませ犬」として幕府に
ぶつけられるのは、絶好の機会である。
口約束と武器の密輸であれば、
長州がポシャっても幕府にバレずに済む。

長州は多大なメリット

長州藩は孤立無援であり、武器もなかったから
薩摩藩と組むメリットは明白である。
(というか、組まないと藩が消滅してしまう)

この段階の敵は京都の会津藩がメインである。
(ずっと東にある江戸の幕府ではない)
幕府を倒すとか、新政府を樹立するとか、
そんなことを考える余裕はない。

坂本龍馬(30)

犬猿の仲だった薩摩藩・長州藩を説得して、
薩長同盟を成立させたのではない。

  • 薩摩 米が不作
  • 長州 武器が不足

薩摩と長州で、米と武器を交換する商売を、
彼の会社が取引・運搬しただけ。

龍馬と竜馬

龍馬が薩摩・長州の会談を仲介したことや、
剣の腕も頭も良く、男にも女にも人気があり、
カッコいい人物であったことは事実である。

しかも、
同盟の証となる文書は、存在しない。
薩長が会談した事実を示すのは、
龍馬宛ての手紙1枚だけしかない。

そのため、
「竜馬が薩摩と長州を動かした」
「竜馬の最新兵器で幕府に勝った」など、
多数の物語で幕末の英雄としてキャラ化された。

架空の人物なので、名前を変えてある。
史実の人物が坂本「龍馬」、
小説の登場人物が坂本「竜馬」であり、
同じ人物ではない

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第二次長州征討(失敗)

日本の歴史が変わった戦いである。

幕府軍10万 vs 長州藩3500……
圧倒的な兵力差であるにもかかわらず、
幕府軍は敗退し、権威が消滅する。

薩長の会談で流れてきた武器が、
長州藩に大勝利をもたらしたのである。

原因

長州藩内では、弱腰の保守派に対し、
伊藤博文や高杉晋作ら過激派がブチ切れて決起。
薩摩藩の支援で西洋式の再軍備を行った。
8/18の政変、池田屋事件、禁門の変、長州征伐①…
火山でいえば、マグマが溜まりに溜まって
大噴火寸前の状態であった。

幕府をシカト

危険視した幕府が10万石の削減を言い渡すも、
長州藩がシカトしたので、討伐に出た。
というか、
第一次長州征討があまりに甘い処分だったので、
次の長州征討をしたくてたまらなかった。
(だから些細なことで征伐が決まった)

とはいえ、
幕府軍は寄せ集めでヤル気がない。
10万人分の最新兵器など用意する予算はなく、
戦国時代に毛が生えた程度の銃がメイン。

士気と武器の差

長州藩は藩の存続がかかっているうえ、
死を恐れぬ過激派や危険人物、狂戦士ばかり。

大量の最新兵器も保有している。
幕府の10倍のスピードで撃てる大砲で後方支援、
遠距離で正確、強力しかも連射できる銃で突撃。
奇襲で敵陣に突っ込んでもいくし、
夜襲で軍艦に乗り込んでいったり、
命知らずな戦いをする。
ここで獅子奮迅の活躍をしたのが、
高杉晋作(27)である。

圧倒的な戦力差であるにもかかわらず、
長州藩優位で戦局は進んだ。

幕府が敗退

戦いの最中に将軍⑭徳川家茂が死去してしまった。
これで幕府軍は大混乱してしまい、
天皇に頼んで双方に停戦命令を出してもらった。

一応、引き分けの体裁にはなったものの、
誰が見ても「幕府の敗北」である。

たった1藩に、たった3500の兵に、
幕府軍10万が敗北……
これで幕府の権威が露と消えた。
日本全体が幕府をナメるようになり、
言うことを聞かなくなり始めた。

幕府の支配が限界に

2度に渡る長州征討の兵糧確保により、
商人による米の買い占めや資産家の投機が発生。
米の値段が5年で5倍となり、
都市部の庶民生活が崩壊する。

日本国民が「世直し」を求めるようになった。

薩摩藩の寝返り

薩摩藩としては、時期が来た。

今までは様子見だったが、ここで正式に
薩摩は幕府を見限り、長州に寝返ることを表明。
ここでターゲットは東にある江戸幕府になった。

ここで江戸幕府将軍が⑭家茂⇒⑮慶喜に交代、
翌年に孝明天皇は死去し、明治天皇が即位する。
将軍と天皇が一気に変わることで、
歴史も一気に動くことになる。

しかし、
このタイミングで孝明天皇が35歳で死亡……
どうも怪しい。

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大政奉還(1867)

薩摩にも長州にも狂戦士団と最新兵器がある。
このままでは倒されてしまうので、
幕府はパフォーマンスをすることにした。

  • 1/30 孝明天皇 死去
  • 2/13 明治天皇 即位
  • 11/9 大政奉還

政権を明治天皇に返し、また任せてもらう……

それじゃ「同じことじゃん!」と
思うかもしれないが、効果は大きい。
ここからは天皇を味方にした者が勝ちである。
国民も大名も天皇を崇拝しているため、
「天皇が味方⇒日本全体が味方」となる。

政権を天皇に返した

もともと幕府とは、チカラを持った武士団が
朝廷から政権を奪った組織である。
とはいえ、
それではカドが立って国民感情に悪い。
そこで天皇から位を授かって代行している、
という体裁をずっと整えてきた。

その政権を天皇に返してしまえば、
倒される理由がなくなる。

ちなみに翌月、坂本龍馬は暗殺された。

でも実権は幕府のまま

いきなり「政権を返す」と言われても、
天皇や朝廷は1000年も政治から離れている。
政治を仕切れるわけがないので、
また幕府に代行させた。
ごもっともな話である。

国民「幕府が天皇から政権を認められた」
薩長「幕府に宣戦布告できない……」

やってることは同じでも、
天皇の「お墨付き」を新たに得て薩長を封じた。
なぜ、そんなことができるのか?

国民は天皇を崇拝している

天皇が○○と考えれば、みんな○○と考える。
天皇が■■と言えば、みんな■■と言い出す。
昔の民衆とはそんなものだ。

ここで幕府を倒してしまえば、
国民「天皇に任されたのに倒すのか!」
と、日本中から嫌悪されることになる。
当然、天皇を崇拝している大名も敵に回る。

今から国民や大名たちと新たな国造りを
しようというのに、それでは本末転倒である。
そこで討幕派はクーデターを起こした。

王政復古の大号令!(1868)

1000年近く武士に政権を奪われた朝廷内には、
幕府を憎んでいる公家も多かったのである。
まだ16歳の明治天皇は、
公家に「さようせい」しか言わない。

薩長同盟と討幕派の公家「岩倉具視」は、
討幕派「天皇が新しい政府を作るぞ!」
天皇を囲って大々的に宣言したのである。

当然、幕府側の勢力は反発するが、
幕府派「幼い天皇を利用しているだけだ!」
討幕派「天皇に意志がないとは無礼だぞ!」
幕府派「ぐぬぬ…………」

政権を返された天皇が、新しい政府を作る。
ごもっともな話である。

国民「天皇が新しい政府を作るのか!」
天皇の名を出すと、効果は絶大であり、
大政奉還パフォーマンスはひっくり返された。

明治維新へ

幕府から領地と実権を取り上げにかかると、
日本は旧幕府・新政府で2つの勢力に割れた。
旧幕府軍と新政府軍である。

旧幕府軍と新政府軍で戊辰戦争が起こるも……
⑮徳川慶喜がヘタレ化してしまう。
明治維新の始まりである。

まとめ

今ごろ気づいたの?

戦国時代には世界トップクラスだった日本は、
江戸時代に鎖国でヌクヌクしている間、
発展途上国にまで落ちぶれた。

とはいえ、
現代ある水田の99%は江戸時代に整備されたし、
庶民にまで教育が普及したのも江戸時代である。
皆が難なく読み書き・計算ができるのも、
江戸時代に統一国家の基盤ができたからである。
だから、
明治のたった数十年で欧米に追いつけた。

江戸幕府と長州の違いは何だろう?
老害が徳川のことしか考えず保身に走った幕府、
若者が純粋に国を想って命を張った長州、
これが雌雄を決したとしか思えない。

とはいえ、
長州藩の維新志士たちは偉人扱いであるが、
あまりにも過激すぎた。
「一度戦争で焼け野原にして国を立て直す」
「天皇をさらって出陣してもらう」など、
完全に危険人物ばかりである。
薩摩藩はともかく、長州藩の考え方や行動は、
冷静に読み返せば引いてしまうレベルだ。

ただ、「英雄」とはそういうものだろう。



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