歴代の徳川将軍は何をやっていたのか?
一般的な日本人にとっては家康・吉慶と
「お犬様の将軍」くらいしか知らない……
また教科書に載っている言葉は知っていても、
江戸時代って何があったのかよく知らないし、
どのタイミングで何が起きたか、ピンとこない。
とはいえ、
15人でそれぞれキャラは立っている。
①家康(イエヤス)
織田信長と同盟を組んで勢力拡大、
豊臣秀吉の死後に天下統一し、江戸幕府を開いた。
死後は日光東照宮で祀られ、
東照大権現として神格化された。
家康時代のできごと
- 1600年(57) 関ヶ原の戦い
- 1603年(60) 征夷大将軍⇒江戸幕府を設立
- 1605年(62) ②秀忠に将軍を譲る(世襲宣言)
もう秀頼の世にはしない、と宣言 - 1611年(68) 二条城会見(秀頼滅亡を決断)
- 1614年(71) 方広寺鐘銘事件⇒大阪冬の陣
ムチャクチャな理由で殺す大義名分にした - 1615年(72) 大坂夏の陣(豊臣家滅亡)
同年 武家諸法度 - 1616年(73) 胃癌で死去
海外のできごと
- 1590年 顕微鏡の発明(ヤンセン)
- 1602年 東インド会社(オランダ)
※世界初の株式会社 - 1608年 惑星運動の法則(ケプラー)
- 1609年 島津の琉球侵攻
信長・秀吉との違い
信長は守護代分家出身のため代々の家臣が少ない。
身分・序列を無視した能力主義を徹底し、
「結果を出した者」を重用した。
しかし、裏切りによって織田家は滅亡した。
秀吉は農民出身のため代々の家臣がいない。
カネや領地、たらし込みや恐怖政治などで
「扱いやすい者」を増やしていった。
しかし、跡継ぎに失敗し豊臣家は滅亡した。
家康はそういった失敗を目の前で見てきた。
大名出身のため、代々仕えてきた家臣がいる。
極端な能力主義やエサで釣る手法もとらず、
「信用できる者」を重用した。
君主がバカでも周りでカバーする体制を固め、
御三家の創設をして跡継ぎを多様化した。
長期的に成功
信長と秀吉の方針は短期的には強かったものの、
何十年も長続きしなかった。
信長には生前から裏切り者が多く発生し、
秀吉の死後は離反者が続出した。
家康には存命中も死後も、
裏切り者・離反者が続出することはなかった。
征夷大将軍に就任後、秀頼存命にもかかわらず、
わずか2年余りで②秀忠に将軍職を譲る。
これで「もう豊臣の世には戻さない」……
つまり徳川政権の世襲を天下に示した。
頭
若い頃は血気盛んで激情家だったが、
戦を重ねて我慢強くなり感情を表に出さなくなる。
家臣「何を考えているかわからない」
多趣味で勉強熱心な健康オタク。
毎日洗濯しなくてすむ黄色いフンドシを着用し、
チリ紙を節約するほどの倹約家でもあった。
下半身
11男5女をもうけた。
(50代以降に8人作っている)
また10人以上の隠し子がいた。
ルックスにこだわりがなく、
未亡人やバツあり女性が好みだった様子。
②秀忠(ヒデタダ)
家康の3男だったが、長男が切腹、
次男が養子に出たので将軍となる。
秀吉の人質だったので「秀」忠。
就任中も家康が政治を仕切っていたり、
関ヶ原の戦いに遅刻して怒られるなど、
「無能」とされがちである。
秀忠時代のできごと
- 1579年 家康の三男として誕生
- 1600年(21) 関ヶ原の戦い(初陣)
- 1605年(26) 征夷大将軍
- 1615年(36) 大阪夏の陣・武家諸法度
武家諸法度をクソマジメに守る - 1616年(37) ①家康が死去
- 1619年(40) 福島正則を城の修復で改易
※武家諸法度違反(厳しい!) - 1620年(41) 五女を天皇の嫁に出す
- 1622年(43) 元和の大殉教
- 1623年(45) ③家光に将軍を譲る
- 1630年(52) 五女の娘が天皇になる
自身も天皇の祖父として絶対的地位に - 1632年(54) 胃癌で死去
海外のできごと
- 1620年 清教徒がアメリカ大陸へ
- 1621年 光の屈折の法則(スネル)
頭
性格は「クソマジメ」の一言である。
武家諸法度に違反したり落ち度があった場合は、
譜代・外様問わずに罰し、お家取り潰しとした。
(例:福島正則が城を修理し50⇒4.5⇒0万石)
元和の大殉教ではキリシタン25名を火あぶり、
30名を斬首など徹底的な弾圧を行った。
上半身
関ヶ原の戦いでは主力の3.8万を率いるが、
真田幸村の父0.2万と苦戦し、大遅刻……
家康から大激怒される。
とはいえ、初陣が真田親子では相手が悪すぎた。
大坂の陣では決して遅刻しまいと焦り、
江戸⇒伏見まで17日とダッシュしすぎて
軍が疲労困憊し、開戦時には戦えなかった。
下半身
正室は浅井三姉妹の次女「江」である。
江を恐れてか、気遣ってかは不明だが、
他の女性に子供ができても側室扱いはせず。
女性関係は少なく、大人しめであった。
娘を朝廷の嫁に出すと、その子供が天皇になった。
朝廷工作に成功することで、
幕府の権力は絶対的なモノになった。
自身も「天皇の祖父」として絶対的地位を得る。
③家光(イエミツ)
秀忠の次男として産まれるも、長男死亡で将軍に。
①家康②秀忠までは、ほとんど戦国時代のまま。
一般人のイメージする「江戸時代」は、
③家光の代からの江戸時代である。
家光時代のできごと
- 1604年 ②秀忠と江の次男として誕生
- 1623年(19) 征夷大将軍
「余は生まれながらにして将軍である」 - 1632年(28) ②秀忠が死去
- 1635年(31) 参勤交代を義務付け
- 1637年(33) 島原の乱
- 1641年(37) 鎖国制度の完成
- 1642年(38) 寛永の大飢饉
- 1650年(47) 脳梗塞で死去⇒④家綱
海外のできごと
- 1642年 清教徒革命(イギリス)
- 1643年 大気圧(トリチェリ)
- 1644年 明滅亡で清が発生(中国)
- 1648年 パスカルの原理
頭
戦争の話が大好きだったので、
伊達正宗・藤堂高虎・立花宗茂などの
老いた武将を呼んで武勇伝を聞いた。
中でも、伊達正宗に心酔し「親父殿」と呼んだ。
キリシタン弾圧も徹底的であり、
全国的に虐殺を行った。
上半身
水路普及・開墾などの生産力上昇により、
①家康の頃は400万石だった幕府天領は、
③家光の頃には800万石と拡大している。
幕藩体制や旗本から役職再編(老中など)を
進め、「江戸時代らしい」政治が始まった。
下半身
思春期に男色に目覚め、
「可愛いがられる役」を好んだ。
戦国大名のように美男子を愛でたのではなく、
屈強なガチホモに犯されるのを好んだ。
気に入った相手には「尽くすタイプ」であり、
家柄年齢関係なく領地を当てがう反面、
異様に嫉妬も深かった。
相手の男が彼女を作れば領地没収、
子供を作れば降格、彼氏を作れば打ち首、など。
乳母は春日局
30代までは男色一辺倒(女装癖あり)だったため、
春日局が全国から美女を集め家光に当てがったが
ダメだった……
たまたまボーイッシュな「お万」に
おチンチンが反応したらしく、
40手前で女性に目覚めさせることに成功する。
お万との間に子供はデキなかったものの、
他の側室から④家綱⑤綱吉と続けて産まれた。
この危機感から「大奥」というシステムが
今後、定着することになる。
ちなみに、⑤綱吉の母「お玉」は
八百屋の娘であり、神輿に乗って嫁入りした。
これが「玉の輿」の語源である。
④家綱(イエツナ)
③家光の急死で長男の④家綱が将軍となる。
歴史の残る偉業もなく、大きなイベントもなく、
将軍としての評価はほとんどない。
とはいえ、この頃には太平の世であったので、
武力や権力メインの武断政治から
学問や道徳メインの文治政治に転換した。
家綱時代のできごと
- 1641年 ③家光の長男で誕生
- 1643年(2) 寛永の大飢饉
- 1651年(10) ③家光死去⇒征夷大将軍
- 1657年(17) 明暦の大火
- 1669年(29) シャクシャインの戦い(北海道)
- 1673年(33) イギリスの貿易船を拒絶
- 1680年(40) 心停止で死去⇒⑤綱吉
海外のできごと
- 1648年 タージ・マハール(インド)
- 1665年 万有引力の法則(ニュートン)
- 1666年 イングランドでペスト流行
- 1675年 グリニッジ天文台(イギリス)
※世界の時間の基準
頭
幼い上に脳の疾患もあり、政治は重臣まかせ。
「さようせい」ばかり言い、
「さようせい様」と呼ばれる。
内向的で温厚、釣りと絵画が趣味の
優しい男であったため、家臣に恵まれる。
上半身
沢庵和尚(一休さんのモデル)は、
「5歳にして稀に見る礼儀正しさ」と絶賛した。
明暦の大火は死者10万人ともいわれ、
江戸城の天守閣まで焼け落ちる大災害だった。
鎮火後は、城よりも街の復興を優先させた。
下半身
子供はゼロ。
正室1、側室2だったが子供に恵まれず、
女性関係は大人しかったと思われる。
本人も40歳で急死したので、弟⑤綱吉が継ぐ。
⑤綱吉(ツナヨシ)
④家綱に子供がデキなかったので
弟の⑤綱吉が将軍を継いだ。
改革にもっとも熱心であり、
⑧吉宗から尊敬されるなど有能ではあった。
綱吉時代のできごと
- 1646年 ③家光の四男として誕生
- 1651年(5) ③家光死去⇒④家綱が将軍に
- 1680年(34) ④家綱死去⇒征夷大将軍
- 1681年(35) 長男の健康を願い「七五三」
- 1683年(37) 天和の大火
- 1684年(38) 生類憐みの令
(1702年 「奥の細道」松尾芭蕉) - 1703年(53) 赤穂事件(忠臣蔵)
- 1707年(62) 富士山の噴火
- 1709年(64) 麻疹で死去⇒⑥家宣
海外のできごと
- 1682年 ベルサイユ宮殿(フランス)
※絶対王政の象徴 - 1687年 「万有引力の法則」ニュートン
頭
勉強熱心で頑固、偏見、癇癪持ち。
強引で極端な性格だった。
頭は良いが、人の話を聞かない。
能狂と呼ばれるほどの能好きだった。
前半は「天和の治」と呼ばれるほど善政だったが、
生類憐みの令あたりからおかしくなる。
上半身
当時、切り捨て御免や試し斬りによる合法殺人、
捨て子、捨て老人、捨て病人は当たり前だった。
そういった非人道的行為や動物虐待を戒めた
「生類憐みの令」は最近見直されている。
(本来は、捨て子対策であった)
最初は「自由にしてあげな」程度で
あったものの、どんどんエスカレートしていった。
動物はもちろん、虫や魚、貝にまで罰則ができ、
特に「犬」は大切にされた。
重罪者は処刑・流罪・領地没収と「超」厳しく
北朝鮮のような相互監視社会になってしまった。
下半身
父「家光」とはまったく異なり、
男も女もガンガンいった。
父と違い、男は美少年タイプを好み、
女は家臣の娘だろうが妻だろうが節操なく
手を出しまくった。
家臣の妻とその母と同時プレイしたり、
男性版大奥を作って10人の美少年と
1日中プレイしたりとかなり精力的だった。
赤穂事件
- 浅野内匠頭が吉良上野介を斬りつけた
- ⑤綱吉が浅野内匠頭を切腹させた
- 浅野内匠頭の家臣47人(赤穂浪士)が決起
- 主君の仇討で吉良上野介を殺害
これには庶民が拍手喝采であった - ⑤綱吉が家臣47人を切腹させた
赤穂浪士の事件が庶民の反感を買い、
生類憐みの令の不満と重なって評判を落とす。
そのうえ、
大地震2回・富士山大噴火・大火事が起こる。
科学を知らない庶民は「悪政の天罰」だと信じ、
綱吉の評判は地に落ちることとなった。
さらに、
黄門様(徳川光圀)とは犬猿の仲だった。
水戸黄門や忠臣蔵でのキャラ設定が
イマイチで、イメージが悪い。
⑥家宣(イエノブ)
⑤綱吉の長男が5歳で死んでしまった。
もと副将軍の水戸黄門(徳川光圀)は
⑤綱吉と対立していた。
黄門様が⑥家宣を強力に推して将軍となる。
家宣時代のできごと
- 1662年 誕生
- 1680年(18) ④家綱死去⇒⑤が将軍に
- 1709年(48) ⑤綱吉死亡⇒征夷大将軍
同年 生類憐みの令を廃止 - 1710年(49) 琉球や朝鮮と外交
- 1712年(51) インフルエンザで死去⇒⑦家継
頭
独断で強引に進める綱吉とは正反対であり、
皆で話し合って決めるタイプ。
賄賂は受け取らず、規則に厳しかった。
非常に勉強熱心、慈悲深く人の話をよく聞く。
そのうえイケメンであり、
家臣からも庶民からも慕われていた。
上半身
将軍に就任して3年半、これから本腰を……
というときにインフルエンザにかかってしまう。
跡継ぎの家継はまだ幼い。
遺書には国や民を心配する内容が書かれていた。
15代将軍の中で、ポテンシャルはNo.1かも。
下半身
正室1、側室4、子供6と至って普通。
世継ぎ作成という仕事をした感があり、
女遊びは大人しくマジメであった。
子供は6人できたが、
⑦家継を残して5人とも死亡してしまった……
その⑦家継もすぐに死んでしまう。
⑦家継
⑥家宣の四男だが、兄たちが死去してしまい、
4歳で将軍を継ぐことになる……が、
8歳で死亡してしまう。
家継時代のできごと
- 1709年 ⑥家宣の四男として誕生
- 1713年(4) ⑥家宣死去⇒征夷大将軍
- 1716年(8) 風邪の悪化で死去⇒⑧吉宗
なぜ4歳で将軍に?
「血統の近さ」を無視して「年齢」「能力」を
考慮してしまうと、跡継ぎ争いが起こる。
そもそも老中などの役職整備は
③家光時代に済んでおり、体制は整っている。
母の月光院が実権を握っており、
将軍は神輿として存在しているだけでよい。
幕府は機能するため、4歳で将軍に就任となった。
将来有望だったが……
勉強熱心で素直な性格、父親譲りのイケメン、
家臣想いで評判は良かった。
6歳になると婚約するも、
相手はまだ生後一ヶ月の皇女である。
将軍として実績を出す前に、
8歳で風邪を引き、この世を去ってしまった……
これで将軍家の血筋が途絶えた。
⑧吉宗(ヨシムネ)
御三家から初めて養子として将軍になった。
⑥家宣⑦家継が6年の間に死亡してしまい、
実質的には⑤綱吉⇒⑧吉宗である。
⑤綱吉が散財したうえにインフレが起き、
幕府財政は前代未聞の大ピンチ状態である。
そこで紀州で実績がある吉宗がスカウトされた。
吉宗時代のできごと
- 1684年 紀州徳川家の四男で誕生
- 1705年(22) 兄たち死去⇒紀州徳川家当主に
- 1710年(27) 紀州藩の財政を建て直し
- 1716年(33) ⑦家継が死去⇒征夷大将軍
同年 享保の改革 - 1721年(38) 目安箱を設置
- 1728年(45) ベトナムから象購入
同年 乳牛を導入(日本初) - 1732年(49) 享保の大飢饉
- 1745年(62) 将軍を⑨家重に譲る
- 1751年(68) 脳卒中で死去
海外のできごと
- 1719年 ロビンソン・クルーソー
- 1721年 ロシア帝国が誕生
- 1726年 ガリバー旅行記
- 1728年 ベーリング海峡発見
頭
赤字を垂れ流していた紀州徳川家の財政を、
多額の貯蓄を得るまでに建て直した。
この手腕は日本中で評判となり、
家継の母「月光院」にスカウトされた。
(跡継ぎ問題は大奥でドロ沼の争いがあった)
⑤綱吉と北条時宗(元寇撃退)を尊敬しており、
「吉」「宗」と改名した。
切れ者で積極的、有言実行。
財政の立て直しや内政の改革を進め、
享保の改革により「名君」の誉れ高い。
(吉宗を徳川将軍No.1と評価する者は多い)
上半身
若い頃はヤンチャな暴れん坊で
手がつけられなかったほど。
ベトナムから象を買うほど好奇心旺盛だった。
(すぐに飽きてしまい、扱いに困った)
サトウキビやサツマイモ、乳牛を
広めたのも、吉宗である。
財政の建て直しには成功したものの、
増税(税率40⇒50%)による一揆の頻発や
質素倹約による景気悪化・文化停滞など、
マイナス面もあったので庶民からは不人気。
下半身
立ち寄った茶店の娘や村で見かけた農家の娘など、
チンチンさえ反応すればブスでもデブでもOK!
暴れん坊将軍であると同時に、
節操なく喰い散らかす暴れん棒将軍でもあった。
その反面、大奥を4000⇒1300人と縮小した。
「美女は貰い手があり暇をとらす」と
美女50名を解雇し、大奥のリストラをする。
金喰い虫だった大奥の経費削減と同時に、
野心に燃える美女が政策や人事に影響しないよう、
事前に手を打ったとみえる。
⑨家重(イエシゲ)
脳性麻痺による言語障害があった。
とはいえ健常な弟たちを将軍候補に挙げると、
派閥の権力争いでお家が分断してしまうので
吉宗は長男の⑨家重を将軍とした。
(吉宗も相当、悩んだ様子)
家重時代のできごと
- 1712年 ⑧吉宗の長男として誕生
- 1745年(33) ⑧吉宗隠居⇒征夷大将軍
同年 田沼意次が江戸城へ - 1751年(39) ⑧吉宗死去
- 1760年(49) ⑨家重が隠居⇒⑩家治が将軍に
- 1761年(50) 尿毒症で死去
海外のできごと
- 1748年 「法の精神」モンテスキュー
- 1752年 フランクリンが避雷針を発明
- 1757年 イギリスがインドを制覇
頭
内向的で偏屈、道楽者。
言語障害にコンプレックスがあり、
大奥に引きこもって外に出なかった。
声を聞いた者もほとんどいないらしい。
言語障害や極度の頻尿など、健常でなかった。
ただし将棋は強く、人材の登用に優れており、
知能は高かった様子。
上半身
本人は「自分が凡才」であることを自覚し、
出しゃばらずに無難な存在で通した。
権力を振りかざすこともなく、
大きな失敗もしていない。
(張り切って大失敗する者より、よっぽどいい)
凡才であることを自覚できないばかりか、
「自分は有能」と思い込む現代の政治家よりは、
優れた人物といえるかもしれない。
下半身
幼少期より大奥に入り浸り、酒浸り。
……にもかかわらず、
正室1、側室2、子供2と女性関係は大人しい。
(女性説が出るほど)
⑩家治
⑨家重の子として将軍を継ぐ。
父と同様、田沼意次を重用した。
祖父「⑧吉宗」の寵愛を受け、英才教育を受け、
武術・芸術に優れ「天才」と呼ばれる。
しかし、将軍としては無能だった……
家治時代のできごと
- 1737年 ⑨家重の長男として誕生
- 1760年(24) ⑨家重隠居⇒征夷大将軍
(1774年 「解体新書」杉田玄白)
(1776年 「エレキテル」平賀源内) - 1767年(31) ここから田沼時代の開始
- 1772年(36) 明和の大火
- 1781年(45) ⑪家斉を養子に迎える
- 1782年(46) 印旛沼干拓⇒失敗
同年 天明の大飢饉~1788年 - 1783年(47) 浅間山大噴火
- 1786年(50) 脚気による心不全で死去
⇒翌年、⑪家斉が将軍に
ここで田沼時代が終焉
海外のできごと
- 1763年 産業革命(イギリス)
※ここから日本は欧米に大きく遅れる - 1769年 蒸気機関の発明(ワット)
- 1772年 窒素の発見(ラザフォード)
同年 質量保存の法則(ラボアジェ) - 1773年 イエズス会の解散
- 1774年 酵素の発見(シェーレ)
- 1775年 独立戦争(アメリカ)
- 1778年 ハワイ島発見(クック)
- 1781年 カント哲学
- 1785年 水の合成(ラヴォアジェ)
- 1786年 フィガロの結婚(モーツァルト)
頭
祖父「⑧吉宗」の死後には政治に無関心となり、
囲碁将棋・鷹狩りなどの趣味に没頭する。
さらに、
息子「家基」の死後は無気力となる。
とはいえ、家臣想いの優しい人物ではあった。
上半身
⑩家治の時代は「田沼時代」ともいわれる。
田沼意次が貨幣による税徴収など
革新的な経済政策を成功させる半面、
本人はお飾りの無能扱いを受ける。
この時期から将軍が「権力者」というより、
「単なる神輿」という存在になっていく。
下半身
正室一筋であり、側室を拒んだ。
当時の正室は政略結婚の道具に過ぎかなかったので
その間に2人の子供をもうけるのは異例だった。
しかし、不幸にも2人とも早世してしまい、
仕方なく2人の側室をもった。
産まれた子供は正室と育てるほど、
やはり正室を寵愛した。
祖父「⑧吉宗」を尊敬していたので、
同様に大奥の大幅人員削減を行った。
⑪家斉(イエナリ)
一橋家の長男として産まれるも、
家治の男子が死亡したので、養子として将軍に。
任期50年、子供53人(男26女27)と2冠王である。
虚弱体質が多かった徳川家にあって、
生涯数回の風邪を引いただけの丈夫な体だった。
家斉時代のできごと
- 1773年 一橋家の長男で誕生
- 1782年(10) 天明の大飢饉
- 1783年(11) 浅間山大噴火
- 1786年(14) ⑩家治死去
- 1787年(15) 征夷大将軍
(1790年 「古事記伝」本居宣長) - 1793年(21) 寛政の改革(松平定信)
- 1802年(30) 蝦夷奉行を置く(後の函館)
- 1832年(60) 天保の大飢饉
- 1837年(65) 大塩平八郎の乱
同年 息子⑫家慶に将軍を譲る - 1841年(69) 胃腸炎で死去
海外のできごと
- 1789年 アメリカ初代大統領(ワシントン)
同年 フランス革命 - 1791年 長さの基準「メートル」
- 1793年 マリーアントワネット処刑
- 1796年 牛痘の摂取(ジェンナー)
- 1799年 ロゼッタ石の発見
同年 電池の発明(ボルタ) - 1800年 赤外線の発見
- 1804年 ナポレオンがフランス皇帝に即位
- 1806年 神聖ローマ帝国滅亡
- 1808年 「運命」ベートーベン
- 1811年 「分子説」アボガドロ
- 1821年 鉄道システムの開始
- 1827年 オームの法則
- 1831年 電磁誘導(ファラデー)
頭
「子づくり以外は他人がやるもの」なので、
政治は松平定信に任せきり。
在職50年の間、徳川家は栄華を極めた。
それでも世は平穏で幕府の権力は絶大……
江戸時代のピークともいえる。
田沼意次の政治は成果は大きかったものの、
賄賂や汚職が横行した。
それを是正したのが「寛政の改革」である。
上半身
大の酒好き・女好きであり、
⑩家治とは正反対である。
オットセイのチンチンから作った精力剤を愛用、
「オットセイ将軍」と呼ばれた。
幕府の財政が悪化するも、散財した。
さらに53人の子供の養育費で財政が傾く。
「余にはなぜ孔明のような家臣が揃わんのか?」
凍りつく家臣たち……
「余も劉備のような名君ではないからなw」
冗談が好きで、家臣や庶民には優しかった。
下半身
子供が多すぎてどこに嫁いだか把握しきれず、
嫁ぎ先に朱色の門を建てさせた。
(その1つが東京大学の赤門である)
53人(男26女27)のうち、
成人まで生きていたのはたったの28人であり、
「毒殺と毒乳」が原因とされる。
家臣や側室の権力争いで暗殺が横行した。
(しかし女子はターゲットにならない)
実は、白粉(おしろい)に鉛や水銀などの
重金属が大量に含まれていた。
母の白粉が母乳を介して赤子が摂取し、
重金属中毒を起こして死んでしまった。
⑫家慶(イエヨシ)
⑪家斉の次男であったが、
長男が早世したので将軍となる。
家慶時代のできごと
- 1793年 ⑪家斉の次男として誕生
(1819年 「おらが春」小林一茶)
(1821年 「大日本沿海輿地全図」伊能忠敬)
(1824年 「鳴滝塾」シーボルト)
(1831年 「富嶽三十六景」葛飾北斎)
(1833年 「東海道五十三次」歌川広重) - 1837年(45) ⑪家斉隠居⇒征夷大将軍
- 1839年(67) 蛮社の獄
- 1841年(49) 天保の改革(水野忠邦)
- 1853年(61) 黒船来航(ペリー)
同年 熱中症で死去⇒⑬家定が将軍に
海外のできごと
- 1840年 アヘン戦争
- 1843年 熱の仕事当量(ジュール)
- 1845年 アメリカがテキサス併合
- 1851年 世界初の万博(ロンドン)
頭
将軍となった父の⑪家斉が権力を奮っていたため、
単なるお飾り的存在となる。(父が嫌い)
自分に権力がないのを自覚しており
「そうせい」ばかり言うので
「そうせい様」と呼ばれる。
上半身
父の死後は水野忠邦と天保の改革を行ったり
それなりの政治手腕を発揮するが……
1853年6/3に黒船来航で大混乱の中、
6/22に死去してしまい、さらに混乱を招いた。
父⑪家斉も息子⑫家慶も子だくさんであり、
2人とも生姜が大好きだった。
生姜が精力増強によいかも!?
下半身
父が手当たり次第に手を出すのに対し、
決まった女性に何人も産ませた。
父は質より量、息子は量より質である。
父である⑪家斉に負けず劣らず、
14男13女(計27)に恵まれるものの、
23人が1歳未満で死亡する。
成人したのはわずか1人(⑬家定)だった。
身分の高い者は平和な世の中が続くと
外に出ないし運動もせず、
代々身体が弱くなっていくのである。
⑬家定(イエサダ)
⑫家慶の子27人のうち、唯一の生き残りである。
病弱な息子を想う父は、
⑬家定を将軍にしたくなかった。
家定時代のできごと
- 1824年 ⑫家慶の四男で誕生
(「松下村塾」吉田松陰) - 1853年(30) 黒船来航
同年 ⑫家慶死去で征夷大将軍⇒廃人
↓ここから先が「幕末」といわれる - 1854年(31) 日米和親条約(不平等)に調印
- 1855年(32) 安政の大地震
- 1858年(35) 死去(死因不明、暗殺?)
⇒⑭家茂が将軍に
同年 井伊直弼が大老に就任
頭
脳性麻痺による言語障害や痙攣があり、
政治はおろか、日常生活も危うかった。
言動の不安定さや奇行が目立ち、
天然痘のアザがコンプレックスとなり
めったに人前に姿を現さなかった。
また将軍就任前、膳に毒を盛られた経験から、
お菓子ばかり食べるようになる。
上半身
黒船来航直後で国内は大混乱している中の
将軍交代、しかも障碍者で「超」混乱した。
(政治は老中が仕切っており実績はナシ)
死因はカッケやコレラともされるが、
不審死であったため「毒殺」の説も根強い。
下半身
正室が死亡すると、継室も半年で死亡。
続く継室(篤姫)とは子供に恵まれず……
ただ、家定がお手製のカステラを
篤姫にふるまったりと、夫婦仲は良好だった。
跡継ぎ問題で揉める
将軍を継ぐ条件は、「血統」がダントツで
次に「家格⇒資質⇒年齢」の順に重要である。
血統以外の要素は解釈次第なので、
跡継ぎ候補が複数出てしまう。
室町幕府を血統を軽視し、内乱が多発した。
江戸幕府はそれを反面教師とし、
・将軍はバカでも周りが賢ければよい
・何よりも「跡継ぎで揉めない」ことが重要
・たとえ障害があっても血統で決める
という考えをとった。
⑭家茂の就任時は、血統で候補者が決まらず、
紀州派と一橋派で対立した。
(江戸幕府が衰弱している証拠である)
⑭家茂(イエモチ)
⑬家定に子供がいなかったため
紀州藩主であった⑭家茂が将軍となる。
(このゴタゴタで「安政の大獄」が勃発)
13歳で将軍に就任するもののイケメンで賢く、
努力家であり、家臣に優しく人望があった。
……が、前代未聞の「辞表」を出した将軍である。
(受理はされなかった)
家茂時代のできごと
- 1846年 紀州徳川家の次男で誕生
- 1853年(8) ⑬家定が将軍となる
- 1858年(13) ⑬家定死去⇒征夷大将軍
同年 安政五カ国条約に調印
米蘭露英仏と不平等条約(日本はザコ扱い)
同年 安政の大獄 - 1860年(15) 桜田門外の変(井伊直弼の暗殺)
- 1862年(17) 生麦事件
大名行列を横切ったイギリス人を殺害 - 1863年(18) 8/15薩英戦争(イギリスの仕返し)
薩摩「攘夷なんて不可能だ……」
同年 幕府による新撰組結成
8/5 下関戦争(米蘭英仏 vs 長州藩)
長州「攘夷なんて不可能だ……」 - 1864年(19)
7/8 池田屋事件(新撰組が長州藩を撃退)
8/20 禁門の変(長州藩が幕府に仕返し)
8/24 長州征伐①(幕府が長州藩に仕返し) - 1866年(21)
3/7 薩長同盟+最新兵器(坂本竜馬)
薩摩・長州は欧米と戦って気がついた。
「日本は、あまりにも遅れている!」
「欧米に追いつかなければならない!」
6/7 長州征伐②⇒幕府軍敗退
この敗退で幕府の権威は地に落ちる
7/20 脚気⇒心不全で死去⇒⑮慶喜が将軍に
海外のできごと
- 1859年 種の起源(ダーウィン)
- 1860年 リンカーン大領領(アメリカ)
- 1861年 南北戦争(アメリカ)
- 1862年 奴隷解放宣言(アメリカ)
- 1865年 遺伝の法則(メンデル)
- 1866年 ダイナマイトの発明(ノーベル)
頭
特に、勝海舟とは馬が合った。
⑭家茂の時代から幕末のイメージと重なり出す。
おしるこ金平糖カステラ羊羹など、
大の甘党で虫歯だらけだった。
幕府の権威失墜と藩の勢力拡大、
尊皇攘夷など混迷期に将軍に祭り上げられた。
自分を差し置いて勝手に政策を進める家臣たちに
悔し涙を流す日々が祟り、20歳で亡くなる。
上半身
フランスで蚕が大量死したのを聞くと、
日本の蚕をフランスに送った。
フランスはとても感激し、
旧幕府軍に味方して新政府軍と戦った。
映画「ラストサムライ」は、
家茂が死んだ10年後の西南戦争が舞台である。
(フランスの指揮官+西郷隆盛が新政府軍と戦う話)
下半身
政略結婚ながら正室一筋だった。
(歴代将軍のなかで唯一側室を1人も持たず)
⑩家治以上に正室と仲が良かった。
⑮慶喜(ヨシノブ)
⑭家茂死亡で子がおらず、跡継ぎでまた揉め、
将軍は慶喜に決まった。
江戸幕府「最後の将軍」である。
京都で朝廷との折衝に忙しく、
歴代将軍で唯一、江戸城に入っていない。
将軍職を離れた後は、手裏剣カメラ弓道など
趣味に没頭して生きる。
慶喜時代のできごと
- 1837年 水戸徳川家の七男で誕生
- 1847年(10) 一橋家の養子となる
- 1853年(17) 黒船来航+⑫家慶死去
- 1858年(22) 将軍が⑬家定⇒⑭家茂
- 1860年(24) 安政の大獄
- 1866年(30) 長州征伐②で幕府敗退
同年 ⑭家茂死去⇒征夷大将軍
↓ここから明治維新とする - 1867年(31) 大政奉還(二条城)
「天皇に返したけど、また幕府が任された」
という単なるパフォーマンスだが、
天皇の手前、幕府に手を出せなくなった - 1868年(32)
1/3 王政復古の大号令(クーデター)
「天皇が政治を行うために新政府を作る」
という単なるパフォーマンスだが、
国民の大多数が信じてしまう。
⇒本当に実権を奪われて慶喜がキレた
1/27 鳥羽伏見の戦い(戊辰戦争の開始)
キレた本人が敵前逃亡しちゃった。
(降伏するのはOKだが先頭に立たないのはNG)
3月 江戸城無血開城
勝海舟が慶喜助命のため、尻拭い
4/6 五箇条の御誓文
徳川幕府が消滅 - 1869年(33) 函館戦争(戊辰戦争の終結)
- 1871年(35) 廃藩置県
中央集権・国会や内閣・富国強兵、
文明開化など一連の改革が進む。 - 1877年(41) 西南戦争(西郷どん切腹)
↑ここで明治維新の終了とする - 1885年(48) 初代内閣総理大臣(伊藤博文)
- 1889年(52) 大日本帝国憲法
- 1894年(57) 日清戦争
- 1902年(65) 公爵となる
- 1910年(74) 韓国併合
- 1913年(77) 風邪の悪化で肺炎となり死去
海外のできごと
- 1867年 万国博覧会(パリ)
- 1869年 元素の周期表
- 1876年 電話機の発明(ベル)
- 1886年 ガソリン自動車(ベンツ)
- 1888年 オイスターソースの発明(中国)
- 1889年 エッフェル塔(フランス)
- 1895年 シネマトグラフ(映画)
- 1896年 第1回五輪大会(アテネ)
- 1903年 プロペラ飛行機(ライト兄弟)
- 1905年 相対性理論(アインシュタイン)
- 1908年 プラスチックの発明
- 1912年 タイタニック号沈没(イギリス)
- 1914年 第一次世界大戦
頭
本人は将軍になりたくなかったらしい。
言うことがすぐに変わるので、家臣に不人気。
自己中で空気が読めず、女性にも不人気。
鳥羽伏見の戦いでは、家臣や兵士を見捨てて
逃亡したおかげで、幕府軍は大敗した。
上半身
とはいえ、結果オーライともいえる。
彼が勇猛果敢だったら英仏の思惑通りに、
内戦になっていたことだろう。
ボロボロだった日本は欧米に狙われていた。
すると「幕府+フランス vs 薩長+イギリス」で
代理戦争となり、どちらが勝っても日本は
植民地にされた、と思われる。
彼がヘタレだったからこそ、
日本はあっさり「オールジャパン」になれた。
1つになれたから、欧米列強に対抗できた。
下半身
江戸城に行くヒマがなかったので、
将軍で唯一、大奥に入っていない。
大政奉還などで政治から退くと、
側女2名を連れて静岡に隠居した。
とはいえ、この2名と頑張って
10男11女と第3位の子だくさんである。
15代将軍ランキング
15代……といっても、①家康は別格なので除く。
⑧吉宗のように、血縁を飛び越えて
能力で選ぶと内乱を招きやすい。
⑮慶喜(鳥羽伏見の戦いにて)
「最後の一兵になろうとも決して退いてはならぬ」
⇒仲間を見捨て、妾を連れて敵前逃亡
⑤家綱の「生類憐みの令」は最近見直されており、
有能とみるかどうか意見が分かれる。
徳川将軍たちは、全体的に病弱である。
各種データ
15将軍の平均寿命は51.5歳で、意外と短い。
戦国時代と同じく、
江戸時代も「人間50年」である。
就任年齢の平均は29歳であり、意外と若い。
⑦家継は5歳で就任⇒8歳で死去。
⑪家斉は子だくさんでもNo.1。
50年かけて子供を作りまくった。
日本史上最高の人生を送った人物か?
合計265年であり、平均は17.7年である。
※妾の子は含まず
全体的に病弱な家系のため、子供は少ない。
まとめ
家重・家定のように??な将軍がいるとはいえ、
海外のような暴君・キチガイが
1人も発生しなかったのは幸いである。
とはいえ、
日本と海外のできごとを比べてみてほしい。
秀吉時代の日本は世界トップクラスだったのに、
ヨーロッパの産業革命で一気に差をつけられた。
260年も鎖国でヌクヌクしたおかげで
江戸時代の終わりには発展途上国に落ちぶれた。
平和な時代で人口は増え続けたものの、
生産は横ばい、庶民生活は困窮し続ける。
欧米のように農業国⇒工業国になるべきだったが、
旧然とした鎖国体制にしがみついた。
そこで立ち上がったのが、
九州の雄「薩摩藩」(もと島津領、鹿児島県)と
中国の雄「長州藩」(もと毛利領、山口県)である。
どちらも現代では単なる田舎街に過ぎないが、
この時代には日本の2トップだった。
薩摩藩と長州藩は幕末に欧米列強と戦い、
そのおかげで日本が遅れていると気がついた。
維新志士たちが革命を起こし、明治維新となる。
(戦わなければ、日本は植民地だっただろう)
痛快 明快
エクストリーム interesting
誰が書いてるの?