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【年表ランキング】名前/肖像画「15代徳川将軍一覧」下半身の事情と江戸時代

歴代の徳川将軍は何をやっていたのか?
一般的な日本人にとっては家康・吉慶と
「お犬様の将軍」くらいしか知らない……

また教科書に載っている言葉は知っていても、
江戸時代って何があったのかよく知らないし、
どのタイミングで何が起きたか、ピンとこない。

とはいえ、
15人でそれぞれキャラは立っている。

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①家康(イエヤス)

織田信長と同盟を組んで勢力拡大、
豊臣秀吉の死後に天下統一し、江戸幕府を開いた。
死後は日光東照宮で祀られ、
東照大権現として神格化された。

家康時代のできごと

  • 1600年(57) 関ヶ原の戦い
  • 1603年(60) 征夷大将軍⇒江戸幕府を設立
  • 1605年(62) ②秀忠に将軍を譲る(世襲宣言
    もう秀頼の世にはしない、と宣言
  • 1611年(68) 二条城会見(秀頼滅亡を決断)
  • 1614年(71) 方広寺鐘銘事件⇒大阪冬の陣
    ムチャクチャな理由で殺す大義名分にした
  • 1615年(72) 大坂夏の陣(豊臣家滅亡)
       同年 武家諸法度
  • 1616年(73) 胃癌で死去

海外のできごと

  • 1590年 顕微鏡の発明(ヤンセン)
  • 1602年 東インド会社(オランダ)
         ※世界初の株式会社
  • 1608年 惑星運動の法則(ケプラー)
  • 1609年 島津の琉球侵攻

信長・秀吉との違い

信長は守護代分家出身のため代々の家臣が少ない。
身分・序列を無視した能力主義を徹底し、
「結果を出した者」を重用した。
しかし、裏切りによって織田家は滅亡した。

秀吉は農民出身のため代々の家臣がいない。
カネや領地、たらし込みや恐怖政治などで
「扱いやすい者」を増やしていった。
しかし、跡継ぎに失敗し豊臣家は滅亡した。

家康はそういった失敗を目の前で見てきた。
大名出身のため、代々仕えてきた家臣がいる。
極端な能力主義やエサで釣る手法もとらず、
「信用できる者」を重用した。
君主がバカでも周りでカバーする体制を固め、
御三家の創設をして跡継ぎを多様化した。

長期的に成功

信長と秀吉の方針は短期的には強かったものの、
何十年も長続きしなかった。
信長には生前から裏切り者が多く発生し、
秀吉の死後は離反者が続出した。

家康には存命中も死後も、
裏切り者・離反者が続出することはなかった。
征夷大将軍に就任後、秀頼存命にもかかわらず、
わずか2年余りで②秀忠に将軍職を譲る。
これで「もう豊臣の世には戻さない」……
つまり徳川政権の世襲を天下に示した。

若い頃は血気盛んで激情家だったが、
戦を重ねて我慢強くなり感情を表に出さなくなる。

家臣「何を考えているかわからない」

多趣味で勉強熱心な健康オタク。
毎日洗濯しなくてすむ黄色いフンドシを着用し、
チリ紙を節約するほどの倹約家でもあった。

下半身

11男5女をもうけた。
(50代以降に8人作っている)

また10人以上の隠し子がいた。
ルックスにこだわりがなく、
未亡人やバツあり女性が好みだった様子。

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②秀忠(ヒデタダ)

家康の3男だったが、長男が切腹、
次男が養子に出たので将軍となる。

秀吉の人質だったので「秀」忠。
就任中も家康が政治を仕切っていたり、
関ヶ原の戦いに遅刻して怒られるなど、
「無能」とされがちである。

秀忠時代のできごと

  • 1579年 家康の三男として誕生
  • 1600年(21) 関ヶ原の戦い(初陣)
  • 1605年(26) 征夷大将軍
  • 1615年(36) 大阪夏の陣・武家諸法度
    武家諸法度をクソマジメに守る
  • 1616年(37) ①家康が死去
  • 1619年(40) 福島正則を城の修復で改易
       ※武家諸法度違反(厳しい!)
  • 1620年(41) 五女を天皇の嫁に出す
  • 1622年(43) 元和の大殉教
  • 1623年(45) ③家光に将軍を譲る
  • 1630年(52) 五女の娘が天皇になる
    自身も天皇の祖父として絶対的地位に
  • 1632年(54) 胃癌で死去

海外のできごと

  • 1620年 清教徒がアメリカ大陸へ
  • 1621年 光の屈折の法則(スネル)

性格は「クソマジメ」の一言である。
武家諸法度に違反したり落ち度があった場合は、
譜代・外様問わずに罰し、お家取り潰しとした。
(例:福島正則が城を修理し50⇒4.5⇒0万石)

元和の大殉教ではキリシタン25名を火あぶり、
30名を斬首など徹底的な弾圧を行った。

上半身

関ヶ原の戦いでは主力の3.8万を率いるが、
真田幸村の父0.2万と苦戦し、大遅刻……
家康から大激怒される。
とはいえ、初陣が真田親子では相手が悪すぎた。

大坂の陣では決して遅刻しまいと焦り、
江戸⇒伏見まで17日とダッシュしすぎて
軍が疲労困憊し、開戦時には戦えなかった。

下半身

Cited from “Statue of Azai Sisters“.

正室は浅井三姉妹の次女「江」である。
江を恐れてか、気遣ってかは不明だが、
他の女性に子供ができても側室扱いはせず。
女性関係は少なく、大人しめであった。

娘を朝廷の嫁に出すと、その子供が天皇になった。
朝廷工作に成功することで、
幕府の権力は絶対的なモノになった。
自身も「天皇の祖父」として絶対的地位を得る。

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③家光(イエミツ)

秀忠の次男として産まれるも、長男死亡で将軍に。

①家康②秀忠までは、ほとんど戦国時代のまま。
一般人のイメージする「江戸時代」は、
③家光の代からの江戸時代である。

家光時代のできごと

  • 1604年 ②秀忠と江の次男として誕生
  • 1623年(19) 征夷大将軍
    「余は生まれながらにして将軍である」
  • 1632年(28) ②秀忠が死去
  • 1635年(31) 参勤交代を義務付け
  • 1637年(33) 島原の乱
  • 1641年(37) 鎖国制度の完成
  • 1642年(38) 寛永の大飢饉
  • 1650年(47) 脳梗塞で死去⇒④家綱

海外のできごと

  • 1642年 清教徒革命(イギリス)
  • 1643年 大気圧(トリチェリ)
  • 1644年 明滅亡で清が発生(中国)
  • 1648年 パスカルの原理

戦争の話が大好きだったので、
伊達正宗・藤堂高虎・立花宗茂などの
老いた武将を呼んで武勇伝を聞いた。
中でも、伊達正宗に心酔し「親父殿」と呼んだ。

キリシタン弾圧も徹底的であり、
全国的に虐殺を行った。

上半身

Cited from “https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Rice_fields_Chiang_Mai.jpg”.

水路普及・開墾などの生産力上昇により、
①家康の頃は400万石だった幕府天領は、
③家光の頃には800万石と拡大している。

幕藩体制や旗本から役職再編(老中など)を
進め、「江戸時代らしい」政治が始まった。

下半身

思春期に男色に目覚め、
「可愛いがられる役」を好んだ。
戦国大名のように美男子を愛でたのではなく、
屈強なガチホモに犯されるのを好んだ。

気に入った相手には「尽くすタイプ」であり、
家柄年齢関係なく領地を当てがう反面、
異様に嫉妬も深かった。
相手の男が彼女を作れば領地没収、
子供を作れば降格、彼氏を作れば打ち首、など。

乳母は春日局

30代までは男色一辺倒(女装癖あり)だったため、
春日局が全国から美女を集め家光に当てがったが
ダメだった……

たまたまボーイッシュな「お万」に
おチンチンが反応したらしく、
40手前で女性に目覚めさせることに成功する。
お万との間に子供はデキなかったものの、
他の側室から④家綱⑤綱吉と続けて産まれた。

この危機感から「大奥」というシステムが
今後、定着することになる。
ちなみに、⑤綱吉の母「お玉」は
八百屋の娘であり、神輿に乗って嫁入りした。
これが「玉の輿」の語源である。

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④家綱(イエツナ)

③家光の急死で長男の④家綱が将軍となる。
歴史の残る偉業もなく、大きなイベントもなく、
将軍としての評価はほとんどない。

とはいえ、この頃には太平の世であったので、
武力や権力メインの武断政治から
学問や道徳メインの文治政治に転換した。

家綱時代のできごと

  • 1641年 ③家光の長男で誕生
  • 1643年(2) 寛永の大飢饉
  • 1651年(10) ③家光死去⇒征夷大将軍
  • 1657年(17) 明暦の大火
  • 1669年(29) シャクシャインの戦い(北海道)
  • 1673年(33) イギリスの貿易船を拒絶
  • 1680年(40) 心停止で死去⇒⑤綱吉

海外のできごと

  • 1648年 タージ・マハール(インド)
  • 1665年 万有引力の法則(ニュートン)
  • 1666年 イングランドでペスト流行
  • 1675年 グリニッジ天文台(イギリス)
          ※世界の時間の基準

幼い上に脳の疾患もあり、政治は重臣まかせ。
「さようせい」ばかり言い、
「さようせい様」と呼ばれる。

内向的で温厚、釣りと絵画が趣味の
優しい男であったため、家臣に恵まれる。

上半身

沢庵和尚(一休さんのモデル)は、
「5歳にして稀に見る礼儀正しさ」と絶賛した。

明暦の大火は死者10万人ともいわれ、
江戸城の天守閣まで焼け落ちる大災害だった。
鎮火後は、城よりも街の復興を優先させた。

下半身

子供はゼロ。
正室1、側室2だったが子供に恵まれず、
女性関係は大人しかったと思われる。

本人も40歳で急死したので、弟⑤綱吉が継ぐ。

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⑤綱吉(ツナヨシ)

④家綱に子供がデキなかったので
弟の⑤綱吉が将軍を継いだ。
改革にもっとも熱心であり、
⑧吉宗から尊敬されるなど有能ではあった。

綱吉時代のできごと

  • 1646年 ③家光の四男として誕生
  • 1651年(5) ③家光死去⇒④家綱が将軍に
  • 1680年(34) ④家綱死去⇒征夷大将軍
  • 1681年(35) 長男の健康を願い「七五三」
  • 1683年(37) 天和の大火
  • 1684年(38) 生類憐みの令
    (1702年 「奥の細道」松尾芭蕉)
  • 1703年(53) 赤穂事件(忠臣蔵)
  • 1707年(62) 富士山の噴火
  • 1709年(64) 麻疹で死去⇒⑥家宣

海外のできごと

  • 1682年 ベルサイユ宮殿(フランス)
          ※絶対王政の象徴
  • 1687年 「万有引力の法則」ニュートン

勉強熱心で頑固、偏見、癇癪持ち。
強引で極端な性格だった。
頭は良いが、人の話を聞かない。

能狂と呼ばれるほどの能好きだった。
前半は「天和の治」と呼ばれるほど善政だったが、
生類憐みの令あたりからおかしくなる。

上半身

当時、切り捨て御免や試し斬りによる合法殺人、
捨て子、捨て老人、捨て病人は当たり前だった。
そういった非人道的行為や動物虐待を戒めた
「生類憐みの令」は最近見直されている。
(本来は、捨て子対策であった)

最初は「自由にしてあげな」程度で
あったものの、どんどんエスカレートしていった。
動物はもちろん、虫や魚、貝にまで罰則ができ、
特に「犬」は大切にされた。
重罪者は処刑・流罪・領地没収と「超」厳しく
北朝鮮のような相互監視社会になってしまった。

下半身

父「家光」とはまったく異なり、
男も女もガンガンいった。

父と違い、男は美少年タイプを好み、
女は家臣の娘だろうが妻だろうが節操なく
手を出しまくった。
家臣の妻とその母と同時プレイしたり、
男性版大奥を作って10人の美少年と
1日中プレイしたりとかなり精力的だった。

赤穂事件

  1. 浅野内匠頭が吉良上野介を斬りつけた
  2. ⑤綱吉が浅野内匠頭を切腹させた
  3. 浅野内匠頭の家臣47人(赤穂浪士)が決起
  4. 主君の仇討で吉良上野介を殺害
    これには庶民が拍手喝采であった
  5. ⑤綱吉が家臣47人を切腹させた

赤穂浪士の事件が庶民の反感を買い、
生類憐みの令の不満と重なって評判を落とす。
そのうえ、
大地震2回・富士山大噴火・大火事が起こる。
科学を知らない庶民は「悪政の天罰」だと信じ、
綱吉の評判は地に落ちることとなった。

さらに、
黄門様(徳川光圀)とは犬猿の仲だった。
水戸黄門や忠臣蔵でのキャラ設定が
イマイチで、イメージが悪い。

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⑥家宣(イエノブ)

⑤綱吉の長男が5歳で死んでしまった。

もと副将軍の水戸黄門(徳川光圀)は
⑤綱吉と対立していた。
黄門様が⑥家宣を強力に推して将軍となる。

家宣時代のできごと

  • 1662年 誕生
  • 1680年(18) ④家綱死去⇒⑤が将軍に
  • 1709年(48) ⑤綱吉死亡⇒征夷大将軍
       同年 生類憐みの令を廃止
  • 1710年(49) 琉球や朝鮮と外交
  • 1712年(51) インフルエンザで死去⇒⑦家継

独断で強引に進める綱吉とは正反対であり、
皆で話し合って決めるタイプ。
賄賂は受け取らず、規則に厳しかった。

非常に勉強熱心、慈悲深く人の話をよく聞く。
そのうえイケメンであり、
家臣からも庶民からも慕われていた。

上半身

Cited from “https://commons.wikimedia.org/wiki/File:H1N1_navbox.jpg”.

将軍に就任して3年半、これから本腰を……
というときにインフルエンザにかかってしまう。
跡継ぎの家継はまだ幼い。
遺書には国や民を心配する内容が書かれていた。

15代将軍の中で、ポテンシャルはNo.1かも。

下半身

正室1、側室4、子供6と至って普通。
世継ぎ作成という仕事をした感があり、
女遊びは大人しくマジメであった。

子供は6人できたが、
⑦家継を残して5人とも死亡してしまった……
その⑦家継もすぐに死んでしまう。

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⑦家継

⑥家宣の四男だが、兄たちが死去してしまい、
4歳で将軍を継ぐことになる……が、
8歳で死亡してしまう。

家継時代のできごと

  • 1709年 ⑥家宣の四男として誕生
  • 1713年(4) ⑥家宣死去⇒征夷大将軍
  • 1716年(8) 風邪の悪化で死去⇒⑧吉宗

なぜ4歳で将軍に?

「血統の近さ」を無視して「年齢」「能力」を
考慮してしまうと、跡継ぎ争いが起こる。

そもそも老中などの役職整備は
③家光時代に済んでおり、体制は整っている。
母の月光院が実権を握っており、
将軍は神輿として存在しているだけでよい。
幕府は機能するため、4歳で将軍に就任となった。

将来有望だったが……

勉強熱心で素直な性格、父親譲りのイケメン、
家臣想いで評判は良かった。

6歳になると婚約するも、
相手はまだ生後一ヶ月の皇女である。
将軍として実績を出す前に、
8歳で風邪を引き、この世を去ってしまった……

これで将軍家の血筋が途絶えた。

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⑧吉宗(ヨシムネ)

御三家から初めて養子として将軍になった。
⑥家宣⑦家継が6年の間に死亡してしまい、
実質的には⑤綱吉⇒⑧吉宗である。

⑤綱吉が散財したうえにインフレが起き、
幕府財政は前代未聞の大ピンチ状態である。
そこで紀州で実績がある吉宗がスカウトされた。

吉宗時代のできごと

  • 1684年 紀州徳川家の四男で誕生
  • 1705年(22) 兄たち死去⇒紀州徳川家当主に
  • 1710年(27) 紀州藩の財政を建て直し
  • 1716年(33) ⑦家継が死去⇒征夷大将軍
       同年 享保の改革
  • 1721年(38) 目安箱を設置
  • 1728年(45) ベトナムから象購入
       同年 乳牛を導入(日本初)
  • 1732年(49) 享保の大飢饉
  • 1745年(62) 将軍を⑨家重に譲る
  • 1751年(68) 脳卒中で死去

海外のできごと

  • 1719年 ロビンソン・クルーソー
  • 1721年 ロシア帝国が誕生
  • 1726年 ガリバー旅行記
  • 1728年 ベーリング海峡発見

赤字を垂れ流していた紀州徳川家の財政を、
多額の貯蓄を得るまでに建て直した。
この手腕は日本中で評判となり、
家継の母「月光院」にスカウトされた。
(跡継ぎ問題は大奥でドロ沼の争いがあった)

⑤綱吉と北条時宗(元寇撃退)を尊敬しており、
「吉」「宗」と改名した。
切れ者で積極的、有言実行。
財政の立て直しや内政の改革を進め、
享保の改革により「名君」の誉れ高い。
(吉宗を徳川将軍No.1と評価する者は多い)

上半身

若い頃はヤンチャな暴れん坊で
手がつけられなかったほど。
ベトナムから象を買うほど好奇心旺盛だった。
(すぐに飽きてしまい、扱いに困った)
サトウキビやサツマイモ、乳牛を
広めたのも、吉宗である。

財政の建て直しには成功したものの、
増税(税率40⇒50%)による一揆の頻発や
質素倹約による景気悪化・文化停滞など、
マイナス面もあったので庶民からは不人気。

下半身

立ち寄った茶店の娘や村で見かけた農家の娘など、
チンチンさえ反応すればブスでもデブでもOK
暴れん坊将軍であると同時に、
節操なく喰い散らかす暴れん棒将軍でもあった。

その反面、大奥を4000⇒1300人と縮小した。
「美女は貰い手があり暇をとらす」と
美女50名を解雇し、大奥のリストラをする。
金喰い虫だった大奥の経費削減と同時に、
野心に燃える美女が政策や人事に影響しないよう、
事前に手を打ったとみえる。

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⑨家重(イエシゲ)

脳性麻痺による言語障害があった。

とはいえ健常な弟たちを将軍候補に挙げると、
派閥の権力争いでお家が分断してしまうので
吉宗は長男の⑨家重を将軍とした。
(吉宗も相当、悩んだ様子)

家重時代のできごと

  • 1712年 ⑧吉宗の長男として誕生
  • 1745年(33) ⑧吉宗隠居⇒征夷大将軍
       同年 田沼意次が江戸城へ
  • 1751年(39) ⑧吉宗死去
  • 1760年(49) ⑨家重が隠居⇒⑩家治が将軍に
  • 1761年(50) 尿毒症で死去

海外のできごと

  • 1748年 「法の精神」モンテスキュー
  • 1752年 フランクリンが避雷針を発明
  • 1757年 イギリスがインドを制覇

内向的で偏屈、道楽者。
言語障害にコンプレックスがあり、
大奥に引きこもって外に出なかった。
声を聞いた者もほとんどいないらしい。

言語障害や極度の頻尿など、健常でなかった。
ただし将棋は強く、人材の登用に優れており、
知能は高かった様子。

上半身

本人は「自分が凡才」であることを自覚し、
出しゃばらずに無難な存在で通した。
権力を振りかざすこともなく、
大きな失敗もしていない。
(張り切って大失敗する者より、よっぽどいい)

凡才であることを自覚できないばかりか、
「自分は有能」と思い込む現代の政治家よりは、
優れた人物といえるかもしれない。

下半身

幼少期より大奥に入り浸り、酒浸り。
……にもかかわらず、
正室1、側室2、子供2と女性関係は大人しい。
(女性説が出るほど)

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⑩家治

⑨家重の子として将軍を継ぐ。
父と同様、田沼意次を重用した。

祖父「⑧吉宗」の寵愛を受け、英才教育を受け、
武術・芸術に優れ「天才」と呼ばれる。
しかし、将軍としては無能だった……

家治時代のできごと

  • 1737年 ⑨家重の長男として誕生
  • 1760年(24) ⑨家重隠居⇒征夷大将軍
    (1774年 「解体新書」杉田玄白)
    (1776年 「エレキテル」平賀源内)
  • 1767年(31) ここから田沼時代の開始
  • 1772年(36) 明和の大火
  • 1781年(45) ⑪家斉を養子に迎える
  • 1782年(46) 印旛沼干拓⇒失敗
       同年 天明の大飢饉~1788年
  • 1783年(47) 浅間山大噴火
  • 1786年(50) 脚気による心不全で死去
          ⇒翌年、⑪家斉が将軍に
      ここで田沼時代が終焉

海外のできごと

  • 1763年 産業革命(イギリス)
     ※ここから日本は欧米に大きく遅れる
  • 1769年 蒸気機関の発明(ワット)
  • 1772年 窒素の発見(ラザフォード)
     同年 質量保存の法則(ラボアジェ)
  • 1773年 イエズス会の解散
  • 1774年 酵素の発見(シェーレ)
  • 1775年 独立戦争(アメリカ)
  • 1778年 ハワイ島発見(クック)
  • 1781年 カント哲学
  • 1785年 水の合成(ラヴォアジェ)
  • 1786年 フィガロの結婚(モーツァルト)

祖父「⑧吉宗」の死後には政治に無関心となり、
囲碁将棋・鷹狩りなどの趣味に没頭する。
さらに、
息子「家基」の死後は無気力となる。

とはいえ、家臣想いの優しい人物ではあった。

上半身

⑩家治の時代は「田沼時代」ともいわれる。
田沼意次が貨幣による税徴収など
革新的な経済政策を成功させる半面、
本人はお飾りの無能扱いを受ける。

この時期から将軍が「権力者」というより、
「単なる神輿」という存在になっていく。

下半身

正室一筋であり、側室を拒んだ。
当時の正室は政略結婚の道具に過ぎかなかったので
その間に2人の子供をもうけるのは異例だった。

しかし、不幸にも2人とも早世してしまい、
仕方なく2人の側室をもった。
産まれた子供は正室と育てるほど、
やはり正室を寵愛した。

祖父「⑧吉宗」を尊敬していたので、
同様に大奥の大幅人員削減を行った。

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⑪家斉(イエナリ)

一橋家の長男として産まれるも、
家治の男子が死亡したので、養子として将軍に。

任期50年、子供53人(男26女27)と2冠王である。
虚弱体質が多かった徳川家にあって、
生涯数回の風邪を引いただけの丈夫な体だった。

家斉時代のできごと

  • 1773年 一橋家の長男で誕生
  • 1782年(10) 天明の大飢饉
  • 1783年(11) 浅間山大噴火
  • 1786年(14) ⑩家治死去
  • 1787年(15) 征夷大将軍
    (1790年 「古事記伝」本居宣長)
  • 1793年(21) 寛政の改革(松平定信)
  • 1802年(30) 蝦夷奉行を置く(後の函館) 
  • 1832年(60) 天保の大飢饉
  • 1837年(65) 大塩平八郎の乱
       同年 息子⑫家慶に将軍を譲る
  • 1841年(69) 胃腸炎で死去

海外のできごと

  • 1789年 アメリカ初代大統領(ワシントン)
     同年 フランス革命
  • 1791年 長さの基準「メートル」
  • 1793年 マリーアントワネット処刑
  • 1796年 牛痘の摂取(ジェンナー)
  • 1799年 ロゼッタ石の発見
     同年 電池の発明(ボルタ)
  • 1800年 赤外線の発見
  • 1804年 ナポレオンがフランス皇帝に即位
  • 1806年 神聖ローマ帝国滅亡
  • 1808年 「運命」ベートーベン
  • 1811年 「分子説」アボガドロ
  • 1821年 鉄道システムの開始
  • 1827年 オームの法則
  • 1831年 電磁誘導(ファラデー)

「子づくり以外は他人がやるもの」なので、
政治は松平定信に任せきり。
在職50年の間、徳川家は栄華を極めた。
それでも世は平穏で幕府の権力は絶大……
江戸時代のピークともいえる。

田沼意次の政治は成果は大きかったものの、
賄賂や汚職が横行した。
それを是正したのが「寛政の改革」である。

上半身

大の酒好き・女好きであり、
⑩家治とは正反対である。
オットセイのチンチンから作った精力剤を愛用、
「オットセイ将軍」と呼ばれた。
幕府の財政が悪化するも、散財した。
さらに53人の子供の養育費で財政が傾く。

「余にはなぜ孔明のような家臣が揃わんのか?」
凍りつく家臣たち……
「余も劉備のような名君ではないからなw」
冗談が好きで、家臣や庶民には優しかった。

下半身

子供が多すぎてどこに嫁いだか把握しきれず、
嫁ぎ先に朱色の門を建てさせた。
(その1つが東京大学の赤門である)

53人(男26女27)のうち、
成人まで生きていたのはたったの28人であり、
「毒殺と毒乳」が原因とされる。
家臣や側室の権力争いで暗殺が横行した。
(しかし女子はターゲットにならない)

Cited from “https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Wareshinobu_back.jpg”.

実は、白粉(おしろい)に鉛や水銀などの
重金属が大量に含まれていた。
母の白粉が母乳を介して赤子が摂取し、
重金属中毒を起こして死んでしまった。

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⑫家慶(イエヨシ)

⑪家斉の次男であったが、
長男が早世したので将軍となる。

家慶時代のできごと

  • 1793年 ⑪家斉の次男として誕生
    (1819年 「おらが春」小林一茶)
    (1821年 「大日本沿海輿地全図」伊能忠敬)
    (1824年 「鳴滝塾」シーボルト)
    (1831年 「富嶽三十六景」葛飾北斎)
    (1833年 「東海道五十三次」歌川広重)
  • 1837年(45) ⑪家斉隠居⇒征夷大将軍
  • 1839年(67) 蛮社の獄
  • 1841年(49) 天保の改革(水野忠邦)
  • 1853年(61) 黒船来航(ペリー)
       同年 熱中症で死去⇒⑬家定が将軍に

海外のできごと

  • 1840年 アヘン戦争
  • 1843年 熱の仕事当量(ジュール)
  • 1845年 アメリカがテキサス併合
  • 1851年 世界初の万博(ロンドン)

Cited from “https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Hiyoshi-taisha_juge-jinja-haiden02n4592.jpg”.

将軍となった父の⑪家斉が権力を奮っていたため、
単なるお飾り的存在となる。(父が嫌い)

自分に権力がないのを自覚しており
「そうせい」ばかり言うので
「そうせい様」と呼ばれる。

上半身

父の死後は水野忠邦と天保の改革を行ったり
それなりの政治手腕を発揮するが……
1853年6/3に黒船来航で大混乱の中、
6/22に死去してしまい、さらに混乱を招いた。

父⑪家斉も息子⑫家慶も子だくさんであり、
2人とも生姜が大好きだった。
生姜が精力増強によいかも!?

下半身

父が手当たり次第に手を出すのに対し、
決まった女性に何人も産ませた。
父は質より量、息子は量より質である。

父である⑪家斉に負けず劣らず、
14男13女(計27)に恵まれるものの、
23人が1歳未満で死亡する。
成人したのはわずか1人(⑬家定)だった。

身分の高い者は平和な世の中が続くと
外に出ないし運動もせず、
代々身体が弱くなっていくのである。

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⑬家定(イエサダ)

⑫家慶の子27人のうち、唯一の生き残りである。
病弱な息子を想う父は、
⑬家定を将軍にしたくなかった。

家定時代のできごと

  • 1824年 ⑫家慶の四男で誕生
    (「松下村塾」吉田松陰)
  • 1853年(30) 黒船来航
       同年 ⑫家慶死去で征夷大将軍⇒廃人
    ↓ここから先が「幕末」といわれる
  • 1854年(31) 日米和親条約(不平等)に調印
  • 1855年(32) 安政の大地震
  • 1858年(35) 死去(死因不明、暗殺?)
          ⇒⑭家茂が将軍に
       同年 井伊直弼が大老に就任

脳性麻痺による言語障害や痙攣があり、
政治はおろか、日常生活も危うかった。
言動の不安定さや奇行が目立ち、
天然痘のアザがコンプレックスとなり
めったに人前に姿を現さなかった。

また将軍就任前、膳に毒を盛られた経験から、
お菓子ばかり食べるようになる。

上半身

黒船来航直後で国内は大混乱している中の
将軍交代、しかも障碍者で「超」混乱した。
(政治は老中が仕切っており実績はナシ)

死因はカッケやコレラともされるが、
不審死であったため「毒殺」の説も根強い。

下半身

正室が死亡すると、継室も半年で死亡。
続く継室(篤姫)とは子供に恵まれず……

ただ、家定がお手製のカステラを
篤姫にふるまったりと、夫婦仲は良好だった。

跡継ぎ問題で揉める

将軍を継ぐ条件は、「血統」がダントツで
次に「家格⇒資質⇒年齢」の順に重要である。
血統以外の要素は解釈次第なので、
跡継ぎ候補が複数出てしまう。

室町幕府を血統を軽視し、内乱が多発した。
江戸幕府はそれを反面教師とし、
・将軍はバカでも周りが賢ければよい
・何よりも「跡継ぎで揉めない」ことが重要
・たとえ障害があっても血統で決める
という考えをとった。

⑭家茂の就任時は、血統で候補者が決まらず、
紀州派と一橋派で対立した。
(江戸幕府が衰弱している証拠である)

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⑭家茂(イエモチ)

⑬家定に子供がいなかったため
紀州藩主であった⑭家茂が将軍となる。
(このゴタゴタで「安政の大獄」が勃発)

13歳で将軍に就任するもののイケメンで賢く、
努力家であり、家臣に優しく人望があった。
……が、前代未聞の「辞表」を出した将軍である。
(受理はされなかった)

家茂時代のできごと

  • 1846年 紀州徳川家の次男で誕生
  • 1853年(8) ⑬家定が将軍となる
  • 1858年(13) ⑬家定死去⇒征夷大将軍 
      同年 安政五カ国条約に調印
      米蘭露英仏と不平等条約(日本はザコ扱い)
       同年 安政の大獄
  • 1860年(15) 桜田門外の変(井伊直弼の暗殺)
  • 1862年(17) 生麦事件
    大名行列を横切ったイギリス人を殺害
  • 1863年(18) 8/15薩英戦争(イギリスの仕返し)
    薩摩「攘夷なんて不可能だ……」
       同年 幕府による新撰組結成
       8/5 下関戦争(米蘭英仏 vs 長州藩)
    長州「攘夷なんて不可能だ……」
  • 1864年(19) 
     7/8 池田屋事件(新撰組が長州藩を撃退)
     8/20 禁門の変(長州藩が幕府に仕返し)
     8/24 長州征伐①(幕府が長州藩に仕返し)
  • 1866年(21) 
     3/7 薩長同盟+最新兵器(坂本竜馬)
     薩摩・長州は欧米と戦って気がついた。
    「日本は、あまりにも遅れている!」
    「欧米に追いつかなければならない!」
     6/7 長州征伐②⇒幕府軍敗退
      この敗退で幕府の権威は地に落ちる
     7/20 脚気⇒心不全で死去⇒⑮慶喜が将軍に

海外のできごと

  • 1859年 種の起源(ダーウィン)
  • 1860年 リンカーン大領領(アメリカ)
  • 1861年 南北戦争(アメリカ)
  • 1862年 奴隷解放宣言(アメリカ)
  • 1865年 遺伝の法則(メンデル)
  • 1866年 ダイナマイトの発明(ノーベル)

特に、勝海舟とは馬が合った。
⑭家茂の時代から幕末のイメージと重なり出す。

おしるこ金平糖カステラ羊羹など、
大の甘党で虫歯だらけだった。

幕府の権威失墜と藩の勢力拡大、
尊皇攘夷など混迷期に将軍に祭り上げられた。
自分を差し置いて勝手に政策を進める家臣たちに
悔し涙を流す日々が祟り、20歳で亡くなる。

上半身

Cited from “映画「ラストサムライ」”.

フランスで蚕が大量死したのを聞くと、
日本の蚕をフランスに送った。

フランスはとても感激し、
旧幕府軍に味方して新政府軍と戦った。
映画「ラストサムライ」は、
家茂が死んだ10年後の西南戦争が舞台である。
(フランスの指揮官+西郷隆盛が新政府軍と戦う話)

下半身

政略結婚ながら正室一筋だった。
(歴代将軍のなかで唯一側室を1人も持たず)
⑩家治以上に正室と仲が良かった。

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⑮慶喜(ヨシノブ)

⑭家茂死亡で子がおらず、跡継ぎでまた揉め、
将軍は慶喜に決まった。

江戸幕府「最後の将軍」である。
京都で朝廷との折衝に忙しく、
歴代将軍で唯一、江戸城に入っていない。

将軍職を離れた後は、手裏剣カメラ弓道など
趣味に没頭して生きる。

慶喜時代のできごと

  • 1837年 水戸徳川家の七男で誕生
  • 1847年(10) 一橋家の養子となる
  • 1853年(17) 黒船来航+⑫家慶死去
  • 1858年(22) 将軍が⑬家定⇒⑭家茂
  • 1860年(24) 安政の大獄
  • 1866年(30) 長州征伐②で幕府敗退
       同年 ⑭家茂死去⇒征夷大将軍
    ↓ここから明治維新とする
  • 1867年(31) 大政奉還(二条城)
    「天皇に返したけど、また幕府が任された」
    という単なるパフォーマンスだが、
    天皇の手前、幕府に手を出せなくなった
  • 1868年(32) 
     1/3 王政復古の大号令(クーデター)
    「天皇が政治を行うために新政府を作る」
    という単なるパフォーマンスだが、
    国民の大多数が信じてしまう。
     ⇒本当に実権を奪われて慶喜がキレた

     1/27 鳥羽伏見の戦い(戊辰戦争の開始)
    キレた本人が敵前逃亡しちゃった。
    (降伏するのはOKだが先頭に立たないのはNG)

    3月 江戸城無血開城
    勝海舟が慶喜助命のため、尻拭い
     4/6 五箇条の御誓文
    徳川幕府が消滅
  • 1869年(33) 函館戦争(戊辰戦争の終結)
  • 1871年(35) 廃藩置県
    中央集権・国会や内閣・富国強兵、
    文明開化など一連の改革が進む。
  • 1877年(41) 西南戦争(西郷どん切腹)
    ↑ここで明治維新の終了とする
  • 1885年(48) 初代内閣総理大臣(伊藤博文)
  • 1889年(52) 大日本帝国憲法
  • 1894年(57) 日清戦争
  • 1902年(65) 公爵となる
  • 1910年(74) 韓国併合
  • 1913年(77) 風邪の悪化で肺炎となり死去

海外のできごと

  • 1867年 万国博覧会(パリ)
  • 1869年 元素の周期表
  • 1876年 電話機の発明(ベル)
  • 1886年 ガソリン自動車(ベンツ)
  • 1888年 オイスターソースの発明(中国)
  • 1889年 エッフェル塔(フランス)
  • 1895年 シネマトグラフ(映画)
  • 1896年 第1回五輪大会(アテネ)
  • 1903年 プロペラ飛行機(ライト兄弟)
  • 1905年 相対性理論(アインシュタイン)
  • 1908年 プラスチックの発明
  • 1912年 タイタニック号沈没(イギリス)
  • 1914年 第一次世界大戦

本人は将軍になりたくなかったらしい。
言うことがすぐに変わるので、家臣に不人気。
自己中で空気が読めず、女性にも不人気。

鳥羽伏見の戦いでは、家臣や兵士を見捨てて
逃亡したおかげで、幕府軍は大敗した。

上半身

とはいえ、結果オーライともいえる。
彼が勇猛果敢だったら英仏の思惑通りに、
内戦になっていたことだろう。

ボロボロだった日本は欧米に狙われていた。
すると「幕府+フランス vs 薩長+イギリス」で
代理戦争となり、どちらが勝っても日本は
植民地にされた、と思われる。

彼がヘタレだったからこそ、
日本はあっさり「オールジャパン」になれた。
1つになれたから、欧米列強に対抗できた。

下半身

江戸城に行くヒマがなかったので、
将軍で唯一、大奥に入っていない。
大政奉還などで政治から退くと、
側女2名を連れて静岡に隠居した。

とはいえ、この2名と頑張って
10男11女と第3位の子だくさんである。

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15代将軍ランキング

15代……といっても、①家康は別格なので除く。

⑧吉宗のように、血縁を飛び越えて
能力で選ぶと内乱を招きやすい。

⑮慶喜(鳥羽伏見の戦いにて)
「最後の一兵になろうとも決して退いてはならぬ」
⇒仲間を見捨て、妾を連れて敵前逃亡

⑤家綱の「生類憐みの令」は最近見直されており、
有能とみるかどうか意見が分かれる。

徳川将軍たちは、全体的に病弱である。

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各種データ

15将軍の平均寿命は51.5歳で、意外と短い。

戦国時代と同じく、
江戸時代も「人間50年」である。

就任年齢の平均は29歳であり、意外と若い。

⑦家継は5歳で就任⇒8歳で死去。

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⑪家斉は子だくさんでもNo.1。
50年かけて子供を作りまくった。
日本史上最高の人生を送った人物か?

合計265年であり、平均は17.7年である。

         ※妾の子は含まず

全体的に病弱な家系のため、子供は少ない。

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まとめ

その手があったか!

家重・家定のように??な将軍がいるとはいえ、
海外のような暴君・キチガイが
1人も発生しなかったのは幸いである。

とはいえ、
日本と海外のできごとを比べてみてほしい。

秀吉時代の日本は世界トップクラスだったのに、
ヨーロッパの産業革命で一気に差をつけられた。
260年も鎖国でヌクヌクしたおかげで
江戸時代の終わりには発展途上国に落ちぶれた。

平和な時代で人口は増え続けたものの、
生産は横ばい、庶民生活は困窮し続ける。
欧米のように農業国⇒工業国になるべきだったが、
旧然とした鎖国体制にしがみついた。

そこで立ち上がったのが、
九州の雄「薩摩藩」(もと島津領、鹿児島県)と
中国の雄「長州藩」(もと毛利領、山口県)である。
どちらも現代では単なる田舎街に過ぎないが、
この時代には日本の2トップだった。

薩摩藩と長州藩は幕末に欧米列強と戦い、
そのおかげで日本が遅れていると気がついた。
維新志士たちが革命を起こし、明治維新となる。
(戦わなければ、日本は植民地だっただろう)



  1. ココナッツ より:

    痛快 明快
    エクストリーム interesting
    誰が書いてるの?

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