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【10年間】明治維新「戊辰~西南戦争」西郷隆盛が切腹、版籍奉還と廃藩置県

1868~77年、激動の10年間が「明治維新」である。
真のラストサムライ土方歳三をはじめ新撰組、
自殺前提で西南戦争に付き合った西郷隆盛など
幕末に負けず劣らず個性派ばかりである。

薩長同盟と江戸幕府の対決から始まり、
西南戦争で西郷隆盛が切腹して終わる。
この間に新政府、版籍奉還、士族の消滅などが
内乱と同時進行で進んだ。

  • 1868年 明治政府の成立
     
    1/27 戊辰戦争開始(鳥羽伏見の戦い)

    日本最大の内戦
     
    その後、江戸城無血開城
     
    4/6 五箇条の御誓文
    大事なことは、みんなで決めます!
     
    5/6 奥羽越列藩同盟

    東北31藩で新政府軍に対抗
     
    7/17 東京に首都移転
  • 1869年
     
    1/27 蝦夷共和国

    北海道で最終決戦へ
     
    6/29 戊辰戦争が終結(函館戦争)

    旧幕府軍が消滅
     
    7/25 版籍奉還

    大名から領地・民を取り上げる布石
     
    12/23 岩倉使節団

    不平等条約改正のため海外遠征
  • 1871年 廃藩置県
    大名から領地・民を取り上げた
  • 1872年 徴兵令
    士族の特権が消滅した
  • 1873年 明治6年の政変
    西郷・板垣、官僚600名が辞職
  • 1876年 秩禄処分・廃刀令
    士族から禄と刀を取り上げた
  • 1877年 西南戦争
    日本最後の内戦

すべての内戦を終えると、大日本帝国が
天下統一を果たし、明治維新を終える。

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戊辰戦争(1868)

日本史上最大の内戦であり、
「勝てば官軍、負ければ賊軍」の語源となった。

幕末で、日本は新政府軍と旧幕府軍に分裂した。
「どちらが本当の政府なのか?」
それを決める戦いである。

新政府軍 vs 旧幕府軍

まだ勢力図では狭いものの
「王政復古の大号令」が効いており、
新政府軍の方に圧倒的な勢いがあった。
(薩長土肥というか、ほとんど薩長)

新政府は欧米列強の脅威に焦っており、
戊辰戦争と明治維新は同時進行で行われる。
1868年は、「激動の1年」であった……

戊辰戦争は、3ステップに分けられる。

①鳥羽・伏見の戦い

徳川家から領地や実権を取り上げにかかると、
旧幕府軍が京都に攻め込んできた。
新政府軍が勝利し、江戸城無血開城や
五箇条の御誓文が行われる。

まだ諦めない勢力は北上しながら抵抗を続けた。

②奥羽越列藩同盟

東北の藩が集結して新政府軍に対抗。
しかし、恭順派と徹底抗戦派で割れたうえ、
確固たるリーダー不在で戦力がまとまらず、
バラバラに各個撃破されて消滅した。

ここで江戸を「東京」と改めた。

③蝦夷共和国

最後の望みをかけて北海道に独立国家を樹立し、
最終決戦の地とした。
ところが新政府軍の圧倒的な兵力差で鎮圧され、
旧幕府軍は消滅した。

ここで日本最大の内戦は終了となる。

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①鳥羽伏見の戦い(1/27~30)

鳥羽街道では薩摩軍が、伏見街道では長州軍が、
それぞれ旧幕府軍を迎え撃った。

旧幕府軍1.5万 vs 新政府軍0.5万と
兵数では劣っていたが……新政府軍には秘策あり。

錦の御旗

この旗は「朝敵討伐の証」として、
朝廷から官軍に与えられる旗である。
新政府軍の陣地には、この旗が掲げられた。
すると……

新政府軍の士気は大いに上がり、
旧幕府軍の兵は、いつの間にか自分たちが
「朝敵」にされているのを知り、青ざめた。

旧幕府軍の兵士は次々に撤退・敗走した。

⑮慶喜が逃亡

「朝敵」の汚名を着せられた⑮徳川慶喜は、
兵や家臣を見捨てて江戸へ逃げ帰ってしまう。
(降伏するなら、逃げずに堂々とすべき)

もともと将軍などやりたくなかったうえに、
朝廷に逆らう気など、まったくないから
仕方ない行動ともいえる。
とはいえ、これで幕府軍が総崩れとなった。

江戸で決戦

ここで新政府が大々的に宣言!
「⑮慶喜も江戸幕府も朝敵である」
これで全国の大名が新政府軍に味方した。
(しないと自分が「朝敵」になってしまう)

新政府軍は、⑮慶喜の追討を開始した。
西郷隆盛は江戸に総攻撃をする予定であり、
勝海舟は江戸に火を放って迎撃する予定だった。
つまり、
江戸が火の海になる予定であった……

江戸城無血開城

江戸に到着すると、⑮慶喜は保身に走る。
城も捨てて寺にこもり、戦意喪失を示した。
新政府軍が錦の御旗を上げたのに対し、
⑮慶喜は白旗を上げたので、
江戸は火の海にならずに済んだ。

水戸に隠居すると、江戸幕府は自然消滅した。
単に「死にたくなかった」だけと思われるが、
彼の賢さ・気の小ささが、無用な争いを避けた。

ゆえに、⑮慶喜の評価は意外と高い。
もし彼が勇猛果敢な男だったら、
江戸が火の海になり、次は徹底抗戦の連続で
何十万人もの死者を出したたことだろう。

五箇条の御誓文

  1. 大事なことは皆で決める
  2. 身分を越えて心を1つにする
  3. 誰でも志を実現できる社会
  4. 悪い慣習を捨てる
  5. 海外の文化を取り入れる

江戸幕府が消滅すると、
天皇が「新政府の方針」を神に誓った。
翌日には「五榜の掲示」として国民向けに
明治政府初の禁止令を出した。

幕府の残党

旧幕府軍にはまだ諦めない勢力や、
新たな将軍を立てて幕府の復活を目指す勢力が
まだ残っていたのである。

陸路組は東北へ、海路組は北海道へ向かった。

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②奥羽越列藩同盟

東北地方はまだ幕府側の大名ばかりであった。
そこで陸奥・出羽・越後の31藩が集結し、
北上しながら新政府軍に対抗した。

リーダーがいない

小勢力が集合するも、
先頭に立って指揮をとる者がいない。
恭順派と徹底抗戦派で意見が割れた。

同盟といっても1つになれず、
小さな勢力が散発的に戦ったので、
新政府軍の大軍に各個撃破された。

その中で旧幕府軍の象徴的存在である、
会津藩の戦いを紹介する。

会津戦争(6/10~11/6)

会津藩主「松平容保」は恭順を示したが
新政府軍は朝敵として会津征伐を断行した。

長州藩と会津藩は京都で何度も激突している。

禁門の変などで朝敵にされ長州征伐を喰らい、
会津藩に対し「完全に」ブチ切れていたからだ。

あくまでも松平容保の首を要求してきたので、
仕方なく、会津藩は徹底抗戦を決意する。

総動員の悲劇

白虎隊の集団自決

板垣退助率いる新政府軍の総攻撃で
会津若松城での籠城戦を開始するも、
新政府の大軍と最新兵器の前に歯が立たない。

老若男女、武器を持てる者は全員で戦った。
13~15歳の少年たち「白虎隊」の自決や、
女性部隊「娘子隊」の悲劇が有名である。

奥羽越列藩同盟の藩が次々に降伏し孤立、
藩士や民が次々と死んでいき、
会津藩はついに降伏した。

江戸⇒東京

東北勢を片付けると、江戸を東京と改め、
首都機能を京都から東京に移転しはじめる。

これにより、
大日本帝国の首都が東京となる。

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③蝦夷共和国

海軍副総裁の榎本武揚が艦隊を率いて函館に到着。
そこには新撰組副長の土方歳三の姿もあった。

戊辰戦争における最後の戦いが、幕を開けた。

函館戦争

  • 【1868年】
  • 10月 旧幕府軍が函館に進軍
  • 11月 函館を制圧
  • 12月 蝦夷共和国を樹立
    【1869年】
  • 3月 新政府軍が青森に集結
  • 4月 上陸戦
  • 5月 海戦・総攻撃⇒旧幕府軍が降伏

函館は新政府軍の松前藩が管理していたが、
アイヌ用の小戦力しか配置されておらず、
11月中にあっさり旧幕府軍に制圧された。

五稜郭へ

Cited from “Hakodate Goryokaku Panorama 1“. “5ryokaku stereo“.

旧幕府軍は五稜郭に無血入城し、
函館港に艦隊を配備すると、
冬の間に蝦夷共和国の政権を樹立した。

新政府軍としては大日本帝国領内に
勝手に独立国を作られれば、潰すしかない。

春に激突

新政府軍が雪溶けを待って攻め込むと、
数に勝る新政府軍が旧幕府軍を撃破していく。

5月の海戦・総攻撃により、幕府陣地は
五稜郭・弁天台場・千代ヶ岡陣屋のみとなった。

土方戦死⇒榎本降伏

新撰組副長「土方歳三」は、
最大の砦「弁天台場」が新政府軍に包囲されると、
救出に向かったが、銃弾が腹部に命中し戦死。
(遺体は五稜郭のどこかに埋められたらしい)

榎本武揚は兵士の助命嘆願のため自らは切腹……
しようとするが制止され、降伏する。

千代ヶ岡陣屋では降伏勧告を拒否して玉砕し、
五稜郭の旧幕府軍が降伏して幕を閉じた。

欧米列強は静観

  • オランダ 国が衰退
  • アメリカ 南北戦争で帰った
  • フランス 幕府とつながる
  • イギリス 薩長とつながる

日本はなぜ、戊辰戦争につけ込まれ
欧米に攻め込まれなかったのか?

米蘭は日本どころではない。

英仏は清を強引に植民地化しようとして
激しい抵抗に合い、勝ちはしたが消耗した。
日本に関しては植民地化よりも不平等条約で
貿易した方がコスパがよい、と考えた。

これらが重なり、運よく独立を保てた。

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新政府

新政府は、2手に分かれる。
岩倉使節団が海外を、留守政府が国内を担当した。

新政府のメンバー

新政府は、薩長土肥だけで構成された。
日本全国を治めるのに偏り過ぎであり、
後でモメる原因となる。

版籍奉還(1869)

戊辰戦争が終結した翌月、
幕府と大名のモノであった「土地・民」を
天皇に返還させた。

この段階では徳川領が天皇領に変わっただけ、
藩主が知藩事に役職が変わっただけ。
軍や税は藩の支配下のままで、変化なし。

各藩の反乱を恐れるあまり中途半端に終わり、
目指す「中央集権国家」にほど遠い状態である。

四民平等

名字を名乗ることが許されたり、
異なる身分同士での結婚もできるようになった。

ここで不平等条約改正のため、
岩倉使節団が海外へ出発し、2年かけて回った。

  • 岩倉使節団 不平等条約を改正するため海外へ
  • 留守政府  改革のため国内に残った

欧米へ……

まだ戊辰戦争の終結から半年であり、
版籍奉還も中途半端な状態である。
新政府はなぜこんなに焦って行動したのか?

モタモタしていると欧米の植民地にされる……
その前に、江戸幕府(ヘタレ)が結んでしまった
不平等条約を改正しなければならない。

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留守政府

西郷・板垣・大隈は国内に残り、
廃藩置県・地租改正・徴兵令を断行した。

廃藩置県

まだ版籍奉還は完成していない……
しかし、モタモタしていれば植民地にされる。

藩を廃止して、県を置く。
藩の軍や税etc.の自治権を取り上げることになり、
猛反発が予想された。

新政府はまだ薩長土肥軍しか持っていない。
全国規模の新政府軍が出来るのは、
翌年の徴兵令の後からである。
もし反乱が起これば自力で鎮圧するしかない。

天皇の前に知藩事を集めて強引に進めた。
まず藩を3府302県に改め、
年末には3府72県に統廃合した。

あっさり成功

各藩は「大名貸」によって大坂の豪商から
多額のカネを借りており借金苦であった。
藩を県に変えるということは、
借金を新政府が引き受けることになる。

藩を失っても「華族」として特権階級なので
予想以上に賛成する藩が多かった。

各藩の借金を新政府が引き受けると、
藩債処分を行い借金の半分を踏み倒す。
残り半分は長期の分割払いで対応するが、
商人なので何もできず、泣き寝入りした。

藩と県のちがい

藩は独自の通貨や法律、軍etc.高度な自治権をもつ。
幕府には従うものの、下部組織ではない。

「県」とは政府から派遣された知事が治める。
自治権はなく、中央政府の下部組織に過ぎない。

2つの改革

  • 地租改正 税収をモノからカネへ
  • 徴兵令  軍隊を士族から平民へ

地租改正により、土地が財産となった。
公地から私有地(自分の土地)となることで
働くほどカネが入り、勤労意欲が増した。

税金は、モノ(米など)でなく、
カネ(土地価格の3%)で徴収するようにした。

内乱と一揆を招く

徴兵令によって平民が軍人になると、
士族の特権が消滅し、不満から内乱が多発した。

軍備を増強するのはとにかくカネがかかり、
農民に増税を押しつけたので一揆も多発した。

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西郷・板垣が辞職

  • 岩倉使節団 不平等条約改正に失敗⇒国内優先
  • 留守政府  廃藩置県etc.に成功⇒征韓論

度重なる内乱や一揆により世が乱れ、
失敗組と成功組で政治も乱れ、両者が対立する。

士族の内乱は西南戦争(西郷隆盛)に、
農民一揆は自由民権運動(板垣退助)に発展する。

征韓論

2人とも「中央(政府)の絶対的権力はNG」で
意見が一致した。

特権や仕事を奪われた士族の不満を解消すべく、
西郷は朝鮮を武力で開国させようとした。
朝鮮が日本の国書をシカトしたのを大義名分に
攻め込む案を提示した。

明治6年の政変

岩倉使節団は欧米の進んだ文化を体感し、
日本が圧倒的に遅れていると痛感した……
朝鮮なんかどうでもいい、のである。

征韓論は却下され、2人はキレて辞職し、
参議の過半数、軍人・官僚600人も辞職した。

私学校を設立

Cited from “sakoppi“.

西郷隆盛は薩摩へ帰ると陸軍養成学校を設立し、
国家の非常事態に役立つ人材を育成した。
県の職員や警察は、ここから採用された。
(つまり、士族に仕事を与えようとした)

行き場のない士族が西郷を慕って集まり、
100以上の分校ができ、3万もの士族が集まった。

県で徴収した税金を新政府に納めず、
人事も中央に従わず、私学校なる独自の軍事力……
鹿児島は独立した小国家のようになってしまった。

政府はもう、放っておけなくなった。

政府の挑発

スパイは離反を促したり、薩摩の兵器を
大阪に流しているうちに捕まり、拷問を受ける。

スパイ「西郷隆盛を暗殺しに来た」
薩摩の士族は、完全にブチ切れた。

全面対決へ

西郷と私学校の要職が緊急会議を開き、
「明治政府との全面戦争」が決定する。
西郷隆盛は、もはや彼らを止めなかった。

私学校が独自の軍となったのは不本意とはいえ、
こうなってしまった責任をとるしかない。

なぜ西南戦争を起こしたか?

政府軍には絶対に勝てないのを知っている……
しかし、「ヤルしかない」状態だった。

薩摩士族が中央に従うまで政府の挑発は続く。
もはや、彼らを抑え続けるのは不可能。
いま抑え込んだところで、いずれ戦争は起こる。

そこで彼らの「死に場所」を用意することにした。
また、政府軍に敗れることで納得すれば、
生き残った者の不満の解消にもつながる。

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西南戦争(1877)

倒しても倒しても、政府軍は減らなかった……

政府軍には無尽蔵の援軍と補給が控えている。
政府軍7万 vs 薩摩士族3万で始まった戦いは、
最終決戦時にも政府軍7万 vs 薩摩士族372だった。

新政府軍の主力として幕府を滅ぼした薩摩士族は、
その新政府軍によって滅ぼされることになる。

政府軍が圧倒

  • 2月 薩摩軍が挙兵
  • 4月 熊本城攻略で敗戦
    5~8月 各地で戦闘
    (5月 木戸孝允(43)が死亡)
  • 8/16 薩摩軍を解散
  • 9/23 西郷を囲んで最後の酒宴
  • 9/24 城山戦で西郷が自決

海軍が脆弱な薩摩軍は、
陸路で福岡⇒本州へと進軍することにした。
要所となる熊本城を制圧しにかかるが、
政府軍の挟み撃ちで撃退された。

政府軍の南下を許してしまい、
圧倒的に不利になる。

城山決戦へ(8月)

各地で戦いを続けるも、8月には限界になる。
そこで西郷は軍を解散し、多くが投降した。

戦場での玉砕を望んだ1000人は西郷に続き、
故郷である鹿児島を死地に選び、決戦に臨んだ。
途中、小競り合いを繰り返しながら、
372名が城山に辿りついた。

ラストサムライ(9月)

9/23の夜、西郷を囲んで最後の酒宴を行うと、
9/24午前4時に政府軍の総攻撃が始まる。

城山決戦で股と腹に被弾して立てなくなると、
西郷隆盛「晋どん、晋どん、もうここらでよか」
正座して襟を正し、東方を拝礼して切腹。
別府晋介「ごめんなったもんし!」と介錯した。

残った者は突撃して玉砕していった……

自由民権運動へ

西南戦争では一般人の西洋式軍隊が
専門職の士族に勝つことを証明できた。
明治政府による徴兵制が成功したことで
この後、武力による反乱は起こらなかった。

「ペンは剣よりも強し」
次は、言論によって反乱することになる。

板垣退助

西郷隆盛は士族と共に新政府と戦ったが、
板垣退助は国民と共に自由民権運動で戦った。

富国強兵による増税で搾り取られた農民が
各地で一揆を起こした。
これが自由民権運動のきっかけとなる。

自由民権運動から国会の設立を迫られ、
初代総理大臣に伊藤博文が就任する。
欧米列強に認められるため、
日清戦争・日露戦争へと進んでいく……

まとめ

過大評価No.1筆頭

「幕末15年+明治維新10年=25年」
1868年(大政奉還)前後のわずか25年間で、
日本は生まれ変わった。
発展途上国が近代国家の卵になった。

さらに、
ここから25年で近代化を成し遂げ、
列強ロシアを破るまでになる。

幕末15年+明治維新10年+近代化25年=50年
わずか半世紀で発展途上国が先進国になった。
その後、
大日本帝国は総理大臣をコロコロ変えながら
日清戦争⇒日露戦争⇒世界大戦①②と進む。

これを言い換えると、
日清戦争・日露戦争で連戦連勝して
調子ノリ助となり第一次世界大戦で大儲け。
軍が全開バリバリに、日本全体がおかしくなる。
陸軍が暴走して狂犬と化し、第二次世界大戦へ。

……が、
太平洋戦争は30倍の戦力差で叩き潰される。



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